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宋神道さん 逝去



日本在住の朝鮮人「慰安婦」被害者として唯一人、日本政府を相手に謝罪と賠償を求めて提訴した宋神道(ソン・シンド)さんが、12月16日午後2時、東京都内で老衰のため逝去しました。11月に95歳の誕生日を迎えたばかりでした。

宋神道さんは、1922年に朝鮮の忠清南道で生まれ、満16歳の時(1938年)、騙されて中国中部の武昌の慰安所「世界館」に連れて行かれました。その後、漢口を経て、第11軍司令部のあった岳州に移動し、咸寧で日本の敗戦を知りましたが、行く宛もなかった宋さんは「結婚して日本に行こう」という日本軍人の言葉に騙されて日本に渡ってきました。1946年春、引き揚げ船で博多港に着くと、その軍人に突き放され、宮城県女川町在住の在日朝鮮人男性に救われて、その男性が亡くなる1982年まで共に暮らしました。1993年4月、東京地裁に提訴。2003年3月、最高裁は上告を棄却、敗訴が確定しました。

10年にわたる裁判を記録したドキュメンタリー映画「オレの心は負けてない」が2007年に公開され、「二度と戦争をしてはならない」という宋さんの訴えが深い共感と大きな反響を呼びました。映画は今も、各所で上映され続けています。 2011年3月の東日本大震災で被災した後、東京に移住しました。
葬儀は、在日の慰安婦裁判を支える会が密葬でとりおこないました。2018年2月25日にお別れの会を催す予定です。



2017年12月19日              
在日の慰安婦裁判を支える会



2012年、宋神道さんに関西にも来て頂いて、お話を聴いたり交流する機会を持ちました。
数々の集会に参加されて、いつも「戦争は絶対しちゃダメ!」と力強く訴えておられた姿を今あらためて思い起こしています。
宋さんを失った悲しみをのり越えて、その意志を引き継ぎ、戦争や性暴力のない、平和な社会を目指して行動しましょう。










挺対協より訃報がありました



またひとりの日本軍性奴隷制被害者が亡くなられました。
忠清南道タンジンで暮らしていたイ・ギジョンハルモニが11月11日午前亡くなられました。

1925年に忠清南道タンジンで生まれたハルモニは、19歳ごろに日本軍の服を洗濯する仕事があるとだまされ連行されました。
家族にも知らされることなく連れ去られました。
プサンからシンガポール、ビルマの軍専用慰安所に動員されました。
解放後、軍艦に乗ってプサンへ到着、ソウルでお手伝いなどをしながら細々と暮らしました。
後に故郷へ帰ったハルモニは父親にだけ「慰安婦」生活を告白しました。
2005年、被害事実を知った妹に連れられて申告されました。

旧盆連休前に訪問したときは元気に笑ってくれたのですが、、、
ハルモニたちに時間はありません。
イ・ギジョンハルモニのご冥福をお祈りします。

韓国挺身隊問対策協議会









挺対協より訃報がありました



皆さま


2017年11月1日午前、日本軍性奴隷制被害者のひとりが亡くなられました。
ハルモニは、17歳のときにひとりで家にいたところ、区長と巡査が入ってきてとにかくついて来いといい、 恐れおののいた状態で何もわからないまま連行されました。
そして、タイ・シンガポール・ビルマとつれまわされ、ひどい苦痛を味わいました。
その後、大きな衝撃と恥ずかしさで身分を隠し、一人で苦しい生活をしてきました。
ハルモニは、昨日の夕方、いつものように床にふされましたが、 今朝確認してみるとすでに亡くなってられたそうです。
訪問のときには明るい笑顔を見せてくれたハルモニでした。
ハルモニが、生涯の苦痛をすべて忘れ、安らかに眠られるよう祈ります。
ハルモニのご冥福をお祈りします。
家族の意向により、葬儀は非公開で執り行われます。

韓国挺身隊問対策協議会







挺対協より訃報がありました



ハ.サンスクハルモニのお葬式を終えた今日(8月30日水曜) 午後3時ごろ、また一人の日本軍性奴隷制被害者が老衰で亡くなられました。
享年93歳。
1924年に生まれたハルモニは、親戚の家に養女に出され育ちました。村の洗濯場から台湾の慰安所に連行されました。
解放後、あちこちを転々としながら、食堂や農作業をして生計をたて、2001年に政府へ被害者登録されました。
ハルモニが亡くなり生存者は35名になりました。
ハルモニのご冥福をお祈りください。
また、一日も早く日本軍性奴隷制問題が正しく解決され、ハルモニの名誉が回復し心に平和がおとずれるよう、ともに努力していただけるようお願いいたします。
遺族の意向でハルモニや葬儀の内容は非公開です。







河床淑ハルモニ逝去



8月28日午前9時10分、日本軍性奴隷制被害者であるハ・サンスクハルモニが亡くなられました。
1928年に忠南ソサンで生まれ、今年かぞえで90歳になるハルモニは工場に行けばお金を稼げるという言葉にだまされ1944年に17歳で日本軍性奴隷として連行され苦痛を経られました。
解放後、故郷に帰ることができず、戦争の苦痛とともに戦後60年を中国で暮らした後、 ようやく故郷にもどることができました。
2000年には日本の東京で開催された「女性国際戦犯法廷」で北側の証人として参席され、 水曜デモや日本での集会など、日本軍性奴隷制問題解決のための活動に積極的に参加されました。
長い入院生活を送っていたハルモニは、 日本の公式謝罪も法的賠償も受けられないまま肺血症により亡くなられました。
これからは安らかに眠られることを願います。
ハルモニのご冥福をお祈りします。


 







黄有良さん逝去



中国人元「慰安婦」  黄有良さんが亡くなられました。
詳細につきましては産経ニュースをご覧ください。


http://www.sankei.com/world/news/170814/wor1708140052-n1.html






金君子ハルモニ逝去



1998年より20年余りナヌムの家で生活をされていた金君子ハルモニが7月23日、老衰で亡くなられました。
享年91歳でした。
日本政府からの公式謝罪も賠償も遂に受け取ることができず、痛恨の思いでいっぱいです。
金君子ハルモニの焼香所には学生・若者たちとカン・ギョンファ外交部長官をはじめ、国会議員らが次々と焼香に訪れました。
韓国の生存者は37名になりました。


「ナヌムの家」を訪問した鄭ヒョンベク女性家族部長官と対話をされる金君子ハルモニ(7/10)
<ハンギョレ新聞日本語版より>




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7月23日午前8時、京畿道広州ナヌムの家に暮らしていた 日本軍性奴隷被害者金君子ハルモニが亡くなられました。
1926年に平昌で生まれたハルモニは 17歳で日本軍に連行され苦痛を経ました。
1998年からナヌムの家で暮らしていましたが老衰で亡くなられました。
今年に入って二度ナヌムの家を訪問したときも体調がよくなく みんなが集まるリビングに出てくることもできないハルモニの部屋に会いにいきました。
うれしそうに迎えてくれ、おきあがっていろいろな話をきかせてくれました。
笑いながらまた来なさいと手を振ってくれたハルモニ。
これからは苦痛や痛みをすべて忘れ、安らかにお眠りください。
金君子ハルモニの冥福をお祈りします。

(挺対協)


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本岡昭次先生のご冥福を祈ります(追悼文)







 長い間人権擁護活動の指導者として尊敬し、頼りにしていました本岡昭次先生が2017年4月10日急逝されたとのニュースをうかがい、衝撃を受けました。3月末には電話でお話しできました。お疲れの様子ではありましたが、この次に三田でお目にかかれることを期待して電話を切りました。埋めがたい喪失感は、表現のしようもありません。

 想い返してみますと、1980年代初め頃、私は第2東京弁護士会の人権擁護委員会の委員(副委員長)として、精神医療による人権侵害の実態についての調査に専念しました。その当時のことです。私は、精神衛生法の欠陥から起こされた重大人権侵害は、国際人権(自由権)規約違反であるという研究成果を発表し、法改正を提案しました。しかし、弁護士会だけでは政治を動かすことはできませんでした。

 野党第1党社会党(社労部会)の本岡昭次先生ほか数名の参議院議員は、被害者の声を聴き、私たち法律家や精神医療従事者と協力して宇都宮病院の人権侵害事件(虐待死、違法拘禁など)の調査に取り組み、1984年3月参議院予算委員会で問題提起しました。それまでほとんど注目されなかった精神医療による人権侵害が社会問題として主要メディア に大きく報道され、内外の注目を浴びることになったのです。この問題は、1984年8月国連NGO・国際人権連盟(ILHR)の支援を得るという幸運に恵まれ、国連人権会議でも論議されました。国際法律家委員会(ICJ)など3つの国連NGOによる人権実情調査団の日本派遣が実現し、日本政府への調査団勧告が出されたのです。このような内外の運動の流れは、日本政府を動かし、1987年9月精神衛生法を精神保健法として改正するという成果につながったのです。

 これを契機に、本岡議員などの社会党議員団も国連欧州本部を訪問し、人権小委員会に参加するなどして国際人権法政策の調査・研究を始めました。これは、超党派の国連人権活動協力議連(初代会長羽田孜衆議院議員=後の首相)の創設など、国会議員が国連人権活動支援のためのリーダーシップをとるまでに発展しました。

 その後本岡議員は、私たちの要請に応え国際人権法の日本への実効的な導入のために、人権条約、とりわけ個人通報権条約批准運動を精力的に続けました 。そのような本岡議員による国会活動と私たち法律家による国連人権活動という内外の国際人権活動は、日本軍「慰安婦」問題への取り組みに発展したのです。

 1990年6月6日の参議院予算委員会で、本岡議員は社会党を代表して質問に立ち、朝鮮人強制連行問題を詳細にただしていくなかで、「強制連行の中に従軍慰安婦という形で連行されたという事実もありますが、その通りですか」と質問したのです。ところが、答弁にたった清水労働省職業安定局長は、「従軍慰安婦なるものにつきましては、古い人の話等も総合して聞きますと、やはり民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、というような状況のようでして、こうした実態について調査し結果を出すことは、率直に申してできかねると思っている」と、民間の業者の問題であり、国は関与していないので、調査はできないと突っぱねたのです。本岡議員は、この事態を明らかにしないで日本と韓国の信頼関係が築けるのか、と海部総理に厳しく迫りました。結局、「政府は早急に報告する」との海部総理の答弁を得て、調査結果を待つことになったのです。この時の国会での質疑を知った韓国女性団体は、「日本政府は嘘をついている。軍隊の関与で行われたことである」と激しい抗議の声をあげました。「慰安婦」にされた金学順さんは、このままでは死んでも死にきれないと、1991年8月に名乗り出ることになり、名誉回復と日本政府の補償を求めて裁判所に提訴することになったのです。そのような流れのなかで、1992年1月には宮沢喜一首相が韓国国会で、「慰安婦」問題について軍の関与を認めて謝罪しました。本岡議員の厳しい追及を受け、内閣外政審議室は、1993年8月4日に「いわゆる従軍慰安婦問題について」の調査結果を発表し、この調査結果をもとに河野洋平内閣官房長官談話が発表されたのです。河野官房長官は、慰安所の設置は日本軍が直接・間接に関与したこと、慰安婦の募集については軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったこと、慰安所の生活は強制的な状況の下での痛ましいものであったことなどを認め、被害者に謝罪しました。問題解決のための重要な一歩前進でした。  

 ところが、日本政府は、国の法的責任を回避するため、財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」を設立し、国民の募金による償い金を国に代わって被害者に支給する事業を推進するという民間基金政策を推進しました。本岡議員は、これを真の謝罪とは認めないという被害者の声を支持して、これを基本的な誤りと判断したのです。もはや日本政府が「慰安婦」問題解決の方針を変更しない限り、解決への歩みは、一歩も前進しないのです。被害者が誠意ある謝罪と認めて受け容れる「慰安婦」問題の解決を促進していく新しい法律案を国会で審議し、これを成立させる以外に道はない状況となりました。  

 本岡議員は、議員立法案として、「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」を立案し、韓国を含む各国の被害者側から謝罪として歓迎する意向を事前に確認するという誠実な手順を踏みました。そのうえで、民主党(鳩山由紀夫代表)の影の内閣を説得し、野党共同法案として継続的に提出される状況を作り出しました。この法案が成立すれば「慰安婦」問題の解決が促進されることは、間違いなかったのです。「本岡法案」と呼ばれたこの法案が10回にわたり国会に上程されたことは、日本の多数の国会議員が謝罪のために誠実な活動をした事実を歴史に残しました。しかし、この法案は、メディアに注目されず、自公の反対を突破できず、法律として成立しなかったことは、残念でした。

 本岡議員は、金学順さんから直接「本岡さん、あなたは国会議員でしょう。日本の国会議員が問題を解決してくれないから、私たちが意を決して裁判に訴えたのだ。」と涙ながらに訴えられました。2004年政界から引退した後も国際人権法政策研究所を創設してこの法案の推進などの努力を継続し、最後まで「慰安婦」問題の国の責任による法的な解決に執念を燃やして闘い続けた本岡議員の原点は、この金学順さんの訴えだったということです。

 被害者の人権実現のための本岡先生の苦闘に思いをはせ、ご冥福をお祈りいたします。



 2006年5月15日(月) 国際人権法政策研究所第13回研究会より





陳蓮花さん逝去



みなさま


残念な、悲しいお知らせをしなければなりません。
台湾の陳蓮花さんが今夜2017年4月20日、午後8時頃お亡くなりになりました。
昨年の12月10日の「阿媽の家」オープンには元気な姿を私たちに見せてくれたので、そのとき、開館式に参加してくださったみなさまから声をかけてくれたかたもいたと思い、お知らせいたします。

開館式以後、台湾の正月が終わった頃から体調をくずし、3度ほど手術をしました。
4月13日、ICUに入っている陳蓮花さんにお会いしてきましたが、チューブが口に入っており、呼びかけるとうっすら目をあき、かすかにうなずく様子がみられましたが、言葉を交 わすなどはほど遠い状態でした。

陳蓮花さんは、1924年生まれ、フイリピンで看護助手を募集しているといわれ、セブ島で「慰安婦」被害を受けました。
米軍の攻撃を受けたりしながらセブ島に到着。台湾人兵士に「どうしてきたのか」と聞かれ、「看護婦の仕事をしに」といったら「看護婦じゃない、慰安婦だ」と言われましたが、「慰安婦」の仕事とは何かわからなかったといいます。
やがて米軍の艦砲射撃がひどくなり、山中へ逃げ込んだりしますがこの逃避行の中で台湾から一緒に来て仲良くしていた女性が亡くなり、彼女の爪や髪を切って持ち帰りました。
帰国してからも彼女の身内を見つけられなかったため、その後も蓮花さんはその人を弔い続けたといいます。

日本降伏後、米軍の捕虜収容所で、最初にあった台湾人兵士が蓮花さんを探しに来て奇跡的に再会し、やがて台湾に帰ってから2人は結婚します。
帰国してからも経済的には苦しく、洋裁などで生計をたてました(蓮花さんは、ワークショップに参加するときなど自分で縫ったという洋服を着ていつもおしゃれでした)。
蓮花さんは、阿媽たちのワークショップ等にはいつも参加していましたが、公に名前や顔を出すのはずっと後のことでした。
なぜ、顔や名前を出すことにしたの?と聞いたことがあります。蓮花さんは「もう年をとったからね。いいんだよ」といいました。

蓮花さんが初めて大勢の人を前にした証言は、日本の京都での証言集会の時でした。
ときおり、日本語でカンポウシャゲキと表現し、そのすさまじさを「パラパラパラ」と身振り手振りで語りました。そして泣きました。なるべく泣かないように毅然としていた蓮花さんが泣きました。

気強く、信仰深く生きてきた蓮花さんの旅立ちの途がどうぞ平安でありますように・・・。

蓮花さん、私たちはあなたを忘れません。


Sincerely yours     
Yoko SHIBA (柴 洋子









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