2011年12月18日


<声明書>
日韓首脳会談で見せた日本政府の厚顔無恥
より多くの平和の碑が日本政府を糾弾するだろう

 18日、日韓首脳会談で李明博大統領は日本の野田総理に日本軍「慰安婦」問題の解決を第一に求めた。李大統領は、前日大阪で開かれた同胞懇談会でも「『慰安婦』問題はどこまでも解決できる問題だと思う。この方々が生きている間に慰安婦問題を解決することが両国の未来に大きな助けとなるだろう」と語った。

 そして今日開かれた首脳会談で冒頭発言を通じ、「日韓両国は共同繁栄と歴代平和・安保のため真のパートナーにならなければならず、問題となっている軍慰安婦問題を優先的に解決するために、真の勇気を持たなければならない」と明らかにした。
 続けて「慰安婦問題は認識を変えればすぐにでも解決できる問題」であるとし、「両国間の懸案に助け となるよう大局的見地で考えてほしい」と強調した。「生存する慰安婦ハルモニが80歳以上であり、数年たてば亡くなってしまう。生涯無念を抱いて生きてきた63名のハルモニが亡くなってしまえば、両国間に解決できなかった大きな課題として残ることになるだろう」と語った。
 野田総理が経済協定(EPA)問題を口にすると、「経済問題以前に過去懸案、軍隊慰安婦問題について話さなければならない」とし、「慰安婦」関連発言を会談の主内容とした。これはまさに、すでに遅くはあるが、先週開かれた第1000回の水曜デモと平和の碑建設を取り巻く国民の願いと意を汲みとり日本に向けたものだと思われる。

 しかし、やはり問題は野田総理であり日本政府であった。日本軍「慰安婦」問題解決を求める李大統領の発言に対し、慰安婦問題について「わが政府の法的立場はすでにご存じなので繰り返さない。人道主義的配慮で協力してきており、今後も人道主義的見地で考えていく」と明らかにした。結局法的には解決したという既存の立場から一歩も動かず、そのような意志もないことを再び確認することになった。そしてより驚愕したのは、野田総理が「平和の碑が建設されたことは残念なこと」だと指摘し、「実務次元の意見は伝えられたものと聞いており、大統領に撤去を求める」と発言したことだ。厚顔無恥が度を超えている。幸いにも李明博大統領はこのような野田総理の言葉に対し、「誠意ある措置がなければハルモニが亡くなるたびに第2第3の像が建てられるだろう」と応じており、日本政府は現実を直視しなければならないだろう。

 日本政府の無責任が生み出した日本軍「慰安婦」被害者の1000回の絶叫とそれによって建てられた平和の碑を、羞恥ではなくむしろ動議に合わない非常識的なものだと対峙する日本政府と保守メディアの姿から一切の良心を垣間見ることはできない。日本政府は、外交施設の前に平和の碑を建てたことがあってはならないことのように主張するが、日本軍「慰安婦」という歴史上類例のない残忍な戦争犯罪をしでかしながら、このような要求を続けるという厚かましさこそ史上類例のない驚くべき態度である。日本政府には、平和の碑撤去要求を撤回し、反省と謝罪の気持ちを込めて平和の碑の前にひざまずき謝罪することが求められている。

 日本政府に対し強力に要求する。日本政府は、今日の李明博大統領の要求をより厳重な韓国民の気持として受け取り、即刻日本軍「慰安婦」問題解決に立ち上がらなければならない。法的責任は解決したという理不尽な主張をやめ、被害者に対する心からの謝罪と国際法による明白な法的賠償など、問題解決のための立法的・行政的措置を迅速に取らなければならない。それがまさに日本政府が人道主義的観点ですべきことであり、これ以上責任を否認したり無視するならば日本政府がそれほど恐れ嫌がる平和の碑は有形無形を超え世界各地で日本政府の犯罪を糾弾する叫びを広げていくであろうし、決して歴史から忘れさられることはないだろう。

 挺対協は日本軍「慰安婦」問題解決のため第1000回にまで続いた水曜デモで宣言したように、世界の良心と手をつなぎ国際社会と協力して、日本軍「慰安婦」被害者の名誉と人権回復が完全になされ、このような犯罪が再び起こらないよう、より積極的に活動を繰り広げていくことだろう。

2011年12月18日
韓国挺身隊問題対策協議会


◆ ハルモニの立場 ◆
キム・ボクトンハルモニ(86)
Q:李明博大統領が日本軍「慰安婦」問題を優先的に解決することを求めたことについて
A:今回行って韓国の大統領が初めて日本に求めたが、日頃の怒りが半分おさまったようだ。やっと大韓民国の国民として扱われたようでうれしいね。今回で終わらず、大統領の宿題として解決してくれればうれしい。
Q:野田総理に対して
A:積極的に解決しないと。20年間口をつむってきたが、銅像を撤去せよとだけ、今後どんなことがあっても日本政府が確実に解決しなければならないと思う。そして犯罪を犯したならば、人道的な次元ではなく、法的解決をすべきだ。口だけで解決できることでもなく、黙認して解決するものでもない。今回李明博大統領がこうやって積極的に求めている時に、一日も早くすっきりと解決して終えてくれればうれしい。

キル・ウォノクハルモニ(84)
Q:李明博大統領が日韓首脳会談で慰安婦問題の優先解決を求めたことについて
A:強く求めてくれて感謝する。日本はなぜ平和の碑を建てるまで謝罪せず賠償しないのですか?日本人は間違いを起こしてもじっと口をつぐんでいればすべて問題が解決すると思っているのですか?これまでずるずる引っ張るだけ引っ張ってきたのだから、韓国大統領が黙ってもいられず強く話しました。これにも応じないのならば人ではありません。日本は。
Q:野田総理の答弁について
A:言葉にもならないことを言わないでほしい。何が法的に解決し誰と決めたのか?私たちと一言も話していない。償い金、基金、そのようなものはいらない。犯罪を起こしたならば法的に解決することを解決し、間違いを間違いだと認めるのが人だというのに。なぜしない?法的に賠償し、心から間違っていたと謝罪を私たちにしなければ、何を後ろでブツブツ言ってるんだか。
法的に早く賠償し謝罪し歴史教科書にも正しく記録して、子どもたちに教えてこそ、このようなことは再び起こらない。そうでなくてもよく起こるんだから。そして早く問題解決しなければ、第2第3の碑が建てられるんだから。ウジウジしていないで法的に賠償して謝罪しなさいよ。

(ハルモニの言葉は厳しい部分もありますがそのまま言葉通りお伝えします。)

 2011年12月14日


第1000回日本軍「慰安婦」問題解決のための定期水曜デモ声明

 1992年1月8日、あの日から20年間、駐韓日本大使館前では寒波を突き破り、日本軍「慰安婦」問題の解決を求める声が響き渡った。その最初の叫びを1000回のたたかいへと引き継いできたわれわれは、日本軍「慰安婦」犯罪を全世界に告発し、被害者たちの人権回復と正義の実現を求めてきた。
 1000回の水曜日は、戦争犯罪を告発して堂々と立ち上がった被害者たちの勇気と連帯してきた、世界中の平和を愛する人々の希望の歴史である。そして1000回の水曜日は、いかなる苦難にも負けることなく続けられてきた不屈の粘りが勝ち取った忍苦の涙である。しかし、あの固く閉ざされた日本大使館と、戦争暴力の世界で未だに苦痛を受ける数多の女性たちが存在するという現実は、私たちの叫びが1000回を越えてもなお、再び新たに力強く続けられねばならないことを物語っている。
 女性の身体を戦争の道具として蹂躙した人倫に反する戦争犯罪が、責任者処罰と法的な問題解決に至っていない今日の現実は、人類の歴史に恥辱を残している。そして何よりも、人類の歴史の最も恥ずかしい記録を、最も長い期間にわたって残している戦犯国日本こそが、戦争と暴力の世紀を終わらせていない最大の犯罪国であることを、今この瞬間にも歴史は記録している。
 日本軍「慰安婦」問題は、十代の少女に対する残忍な暴力であり、女性の身体と心を蹂躙した反人道的な戦争犯罪であり、人間の生を徹底的に踏みにじった最も悪辣な人権蹂躙であることを、今日の1000回水曜デモで私たちは今一度確認する。そして、植民地の民衆に対する極悪な民族差別であり、残忍非道な暴圧であったことを再度明らかにする。
 真の謝罪と賠償はおろか、その真実すら否認する妄言と責任逃れを繰り返す日本政府の醜い振る舞いは、被害者らに対する第2の暴力であり、二重の苦痛を加えるに等しい行為である。戦場に引っ張られて行った少女たちが白髪の老女になってなお、名誉と人権の回復がなされないままこの世を去っている不当な現実、被害者たちを1000回も街頭に立たせてきた責任を、戦犯国日本に厳しく問う。
 日本政府は、20年間叫び続けてきた日本軍「慰安婦」被害者たちの声に耳を傾け、これまで明確な国際法的な判断の下に採択されてきた国連やILOの勧告、各国の国会や地方議会の決議、世界の平和を愛する人々の要求を直ちに受け入れなければならない。徹底した真相究明と共に、公式謝罪と法的賠償など問題解決のための行政的、立法的解決措置を早急に履行しなければならない。
 日本軍「慰安婦」問題の解決は、正しい過去精算による韓日外交の平和的で発展的な下地になるであろうし、引いては日本政府が東アジアと世界平和の実現において、きちんとした役割を果たす道であることは明らかである。このように明らかな歴史的かつ法的な責任を、これ以上知らぬふりをしたり、拒否したりすることは日本政府自らが最低限の良心もない戦犯国であることを再び認める行為である。
 猛暑と極寒の中で毎週水曜日、戦争犯罪による被害を自ら告発してきた被害者たちの苦痛から目をそらしてきた韓国政府にも厳しく責任を問う。日本軍「慰安婦」問題を解決する主体として、また触媒として、その役割を果たすべきところ、韓国政府は徹底的に無視し放置してきた。韓国政府も正しい過去精算を遅らせるもう一つの障害物となり、被害者らの苦痛を加重するさらなる人権蹂躙をはたらいた。韓国政府は、具体的かつ積極的な外交政策を樹立し、周辺国と国際社会の支援を引き出し、日本軍「慰安婦」被害者がこれ以上、街頭に放置されることがないようにしなければならない。
 1000回の水曜デモに込められた粘り強い平和愛好の精神を込めて、今日この場に建てられた平和碑と共に、これまで「日本軍『慰安婦』被害者に正義の回復を!」と共に叫んできた世界の平和を愛する人々がみな、一堂に会した。ここに立っているわれわれ全員は、戦犯国日本政府が日本軍「慰安婦」問題を正しく解決するその日まで、連帯の手を放すことなく、1001回、1002回を越えて水曜デモを続けていくことを宣言する。日本政府は、水曜デモが回を重ねるごとに一層重い責任と歴史の審判が待っていることをしっかりと直視しなければならない。

 今日、歴史的な1000回目の水曜デモを迎え、われわれは次のように要求する。
― 日本政府は、日本軍「慰安婦」犯罪の真相を徹底的に糾明し、被害者に公式謝罪せよ!
― 日本政府は、国際法に則って、被害者に法的に賠償し、二度とこのような犯罪が再発しないよう明確な措置を履行せよ!
― 日本政府は、日本軍「慰安婦」問題を教科書に明確に記述し、現在と未来世代が正しい歴史を学ぶ権利を保障し、引いては人権と平和の価値を実現させることを率先しておこなえ!
― 被害者たちに1000回の街頭闘争を続けさせた韓国政府の無責任と傍観はこれ以上許されない。韓国政府は、憲法裁判所の判決をより謙虚に受け止め、二国間協議の実現、引いては問題解決のための外交的努力を尽くせ!
― 日本軍「慰安婦」被害者たちの正義実現から目を背けてきた各国政府と国際社会にも責任を問う。戦犯の不処罰と戦争犯罪に対する幇助は、日本軍「慰安婦」のような恐ろしい犯罪の再発を誘発するものである。国際社会は戦争と女性への暴力を中断させるため積極的に努力せよ!

2011年12月14日
第1000回日本軍「慰安婦」問題解決のための定期水曜デモ参加者と世界の平和を愛する市民一同


 2011年12月13日


 韓国では水曜デモが1000回を迎えるその日、そして日本全国各地でそれを記念する「韓国水曜デモ1000回アクション」が行われたその日、2人のハルモニの訃報が舞い込みました。何故こんな日に、こんな訃報を耳にしなければならないのでしょうか。
 その日これまで亡くなられた被害者を追悼しました。これまで亡くなられたハルモニたち、そして今、現在進行形で亡くなられていっているハルモニたちのこと思い、私たちの残された時間の少なさを実感しました。
 これで韓国政府が被害認定した234名のハルモニのうち、生存されているのは63名、……今年になって亡くなられたハルモニは16名です。本当に時間がありません!

 中国吉林省の琿春市で暮らしていらっしゃったパク・ソウンハルモニが12月4日に逝去されたという知らせを、このほど受けました。
 ご遺族からの連絡を受けたのが遅く、私たちがハルモニのためにしてさしあげられるのは冥福をお祈りすることしかなさそうです。
 そして、ハルモニの経験された歴史を忘れないことしかありません。

 パク・ソウンハルモニは1917年、慶尚南道釜山付近で10男1女の末っ子として生まれました。

 1937年頃、中国吉林省琿春市の慰安所で「ササキ」という日本名で呼ばれながら、日本軍性奴隷生活を強制されました。
 3、4ヵ月ほどした時に病気にかかり慰安所から出されましたが、その時からあちこちを転々として物乞いをするようにして生きてきました。
 戦争が終わっても、ハルモニは故郷に帰ることができず、中国で生きてこられました。

 ついに故郷の地を一度も踏むことなく、ハルモニは95歳でこの世を去りました。

 挺対協の尹貞玉元共同代表と挺身隊研究所の研究員たちが会いに行った時、ハルモニは「最近でもじっと座っていると、故郷のことも思い出すし、お母さんのことも思い出す。でも、故郷に帰っても知り合いもいないし、年を取ってしまったから……。50歳くらいだったら故郷に帰るけど、今はもう年を取ってしまって無理だ」とおっしゃり、行きたくても行けない故郷に対する思いを語られました。

 故パク・ソウンハルモニの冥福をお祈りします。



 本日(12月13日)午前8時、シムト「ウリジプ」で生活していらっしゃったキム・ヨジハルモニが永眠されました。

 全州で生まれたキム・ヨジハルモニは1924年生まれ。

 1941年(18歳頃)の秋に、平壌で暮らしていたところ、日本人に引率されて女性7人と共に汽車に乗ってつれていかれ、中国の漢口、海南島などで日本軍性奴隷生活を強制されました。
 海南島で解放を迎え、佐世保、下関などを経て46年の春、釜山に帰還、平壌で家族と再会しました。

 ハルモニは身体を汚されたという思いから正常な生活ができず、非常に貧しく厳しい生活をしてこられました。

 最近では認知症で苦しんでいましたが、今朝、突然療養病院で亡くなられました。

 故キム・ヨジハルモニのご冥福をお祈りします。



 2011年11月4日


 皆さま
今年8月アジア連帯会議でのノ・スボクハルモニ。
5万バーツをモンダンヨンピルのクォン・ヘヒョさんに手渡した1シーン。
 韓国挺身隊問題対策協議会 梁路子です。

 残念なお知らせです。
 タイ居住の日本軍「慰安婦」被害者ノ・スボクハルモニが、11月4日、享年91歳で亡くなられました。

 ノ・スボクハルモニは1921年に慶北安東で生まれました。1942年に釜山へ連行され、シンガポールとタイなどで日本軍「慰安婦」として苦痛を味わいました。
 日本の敗戦とともに国連軍捕虜収容所に収容され、故郷にも帰れずタイに定住されました。

 ハルモニは、1984年に駐タイ韓国大使館を通じて韓国にいる家族の捜索を要請し、同年40年ぶりに家族をたずねてタイの家族とともに故国を訪問しました。

 1991年に再び韓国を訪問した後、今年2011年8月、10年ぶりに挺対協の招請で第10回日本軍「慰安婦」問題解決のためのアジア連帯会議参加と、3度目の故国訪問をされたばかりでした。

 自身の誕生日も忘れてしまったハルモニは、解放記念日の8月15日を誕生日にし、母国語を忘れてしまっても故郷の住所だけは韓国語ではっきりと覚えていました。
 先日の訪問時には、車椅子に乗ったそのお姿に、多くの人々が心を痛めました。
 また節約してためていた生活費5万バーツを、「日本地震被害朝鮮学校とともにする人々-モンダンヨンピル」に寄付し、熱い感動を呼びました。

 再びタイにもどったハルモニは健康に過ごしていましたが、老衰で昨日夕方にこの世を去られました。
 ノ・スボクハルモニの最期が寂しくないよう、皆さんも冥福をお祈りください。


 2011年10月20日


<論評> 日本軍「慰安婦」問題と過去の歴史を無視した日韓首脳会談は中身のないピーマン

 19日午前、李明博大統領と野田佳彦総理が首脳会談に臨んだ。先月国連総会期間にニューヨークで行われた首脳会談に続き、野田総理にとって今回は就任後初の首脳会談のための外国訪問という点で注目を集めた。
 何より両国が、特に韓国民が注目したのは、今回の首脳会談で日本軍「慰安婦」問題に対する論議がなされるのかについてだった。高齢の日本軍「慰安婦」被害者は、今回こそ李明博大統領が日本の総理に問題解決を要求するのではないかと、いつにもまして高い期待をかけていた。8月30日に韓国政府が解決努力を傾けてこなかったことに憲法裁判所が違憲決定を下したことにより、これまでは韓国政府も両国関係を考慮し口にすることができなかったとしても、今回は「要求するほかない」憲法的判断と韓国民の世論が後押ししているという、それこそ絶好の機会であるためだ。
 先立って、韓国挺身隊問題対策協議会と日本軍「慰安婦」被害者は、今回の首脳会談で李明博大統領が直接日本政府に日本軍「慰安婦」問題解決を要求し議題としてとりあげることを要請するため、大統領との面談を申し出た。しかし面談は成されず、代わりに李明博大統領に被害者の訴えをしたためた要求書を送った。そして19日、首脳会談のため青瓦台に向かう野田総理に被害者と国民の要求を示すため、光化門(クァンファムン)前で[日本軍「慰安婦」問題解決を求める市民行動]キャンペーンを行った。日本軍「慰安婦」被害者と問題解決を求める市民は、黄色い風船と黄色いプラカードなどを持ち、日本軍「慰安婦」問題が必ずや首脳会談で論議され、これを通じて問題解決を進展させることを切実に訴えた。しかし、結局野田総理は当初の計画を変更し市民行動が行われている光化門を避け迂回路を利用して青瓦台に向かい、首脳会談では日本軍「慰安婦」問題は取り上げられなかった。
 私たちは、日韓間で一番の懸案といえる日本軍「慰安婦」問題を李明博大統領が言及しなかったことに対し強く抗議する。李明博大統領は会談後に行われた記者会見で、「歴史を忘れず未来に向かっていくことが日韓関係の根幹であることを何度も伝え、過去の歴史問題に対し日本の積極的な努力が必要だと強調した」と語った。マスコミによると、イ・ヒョク青瓦台外交秘書官は、「大統領は過去の歴史問題に対する日本の積極努力を数度にわたり強く求めた。慰安婦問題に直接言及した、していないを離れ、日本側は痛切に受けとった」と話した。ニューヨークで開かれた首脳会談の時には初顔合わせのため言及すらできなかったと話していた青瓦台が、今回は言及の有無は重要ではないと言う。強く求めたので痛切に受けとっただろうとのことだ。韓国民誰もが感じられなかったことを、野田総理が痛切かつ強力に受け取ったと主張するとはあきれ果ててものが言えない。
 加えて20日付の朝日新聞は、「韓国政府の事務方が用意した発言要領には慰安婦問題があった。直接取り上げなかったのは大統領の判断だ」と報道した。朝日新聞は理由を「大統領は2008年2月の就任以来、日本非難を避けてきた。歴史認識問題をめぐって日韓関係が悪化した前政権の反省から、経済的な実利を重視する政治スタイルを今回も貫いた」と解説した。
 大統領当選時代から「私自身は成熟した日韓関係のため『謝れ、反省せよ』ということは言いたくない」という個人的信念を一貫して固守してきた李明博大統領の頑固さに驚愕せざるをえない。日本軍「慰安婦」被害者が藁をもつかむ思いで訴えた憲法訴訟による正当な判決に従うと約束した大統領の言葉をひとつも確認することのできない失望だらけの会談結果に、被害者と韓国民は再度絶望感に陥るほかない。日本軍「慰安婦」被害者の20年にわたる街頭での叫びを無視したまま、経済的実績だけをかかげ終わってしまった日韓首脳会談は、真の友好協力関係の基盤をさぐるための根本的な事案はそっちのけ、中身のないピーマンに転落してしまった。
 李明博大統領と政府は、憲法裁判所決定以前に、重大な歴史と人権の問題として韓国政府が立ち上がり日本軍「慰安婦」問題解決のための努力を傾けなければならない。不作為違憲が確認された現在、義務を負わないならば政府の法的責任が問われることを忘れてはならない。実務次元の言及などは要請とは言えず、政府が持つ最善の努力と手段を通じ日本政府に問題解決を求めることが、まさに被害者と韓国民の願いであることを再度強調する。
 野田首相も、朝鮮王室儀軌返還というすでに約束済みのことを訪韓にあわせ見せびらかすことで責任を果たしたと錯覚してはいけない。両首脳が見せたこのようなジェスチャーは小学生が見てもわかる見せかけ外交に他ならない。野田総理は韓国の二国間協議提案以後、自身をはじめ日本にあふれる日本軍「慰安婦」問題はすでに解決済みという発言について釈明し謝るべきであり、即刻協議に応じ、「大局的次元で両国関係に悪影響を与えないよう協力」していくとの発言を実行に移さなければならない。日本軍「慰安婦」問題解決は、以前の「アジア女性基金」のような責任回避的な民間基金ではなく、日本国家としての公式謝罪と法的賠償を通じた明確な解決でなければならないこともまた、再度強調する。
 未解決の歴史をそのまま覆い隠し、両国間の平和な未来を構築するというのは虚構にすぎないだけであり、ここに日韓両政府へ日本軍「慰安婦」問題解決と正しい過去清算のため即刻政策的・立法的解決努力を傾けることを強力に求める。
 この次はない。日本軍「慰安婦」被害者に待つ時間はない。私たちは日韓両政府が一人でも被害者が生きているうちに、20年間休まず叫んできた水曜デモが1000回を迎える前に、即刻日本軍「慰安婦」問題を解決することを求める。

2011年10月20日
韓国挺身隊問題対策協議会
共同代表 ユン・ミヒャン ハン・グギョム


 2011年10月13日


 皆さん
 韓国挺身隊問題対策協議会、梁路子です。

 10月13日に江華(カンファ)に暮らしていたクォンハルモニが亡くなられました。
 来週に訪問しようと家族に連絡したところ、すでに亡くなられていることがわかりました。

 16歳で結婚式の途中に、新婦姿のまま連れ去られたクォンハルモニ。

 辛い慰安所での生活を経て、解放(終戦)後に韓国に戻ってきましたが、家族のもとにも帰れず、筆舌に尽くしがたい人生を送り、88歳でこの世を去られました。

 ハルモニの冥福を祈ります。
 あの世ではどうか自由に飛べることを願っています。

 韓国の日本軍「慰安婦」生存者は66名となりました。


 2011年9月25日


 皆さん
 韓国挺身隊問題対策協議会、梁路子です。

 先日ハルモニの訃報をお伝えしたところですが、続けて悲しいお知らせが入ってきました。

 蔚山(ウルサン)で暮らしていたソン・ナミハルモニが亡くなられました。
 享年90歳。
 無念のまま目を閉じられました。

 長い間老衰で施設に暮らしていましたが、9月25日午後に息をひきとられました。

 こうしてひとりひとりハルモニが亡くなっていかれ、残された時間がないことを実感します。今年に入ってすでに12名のハルモニが亡くなり、生存者は67名になりました。

 どうか植民地も戦争も女性への暴力もない世界で安らかに眠られることを願います。
 故人の冥福をお祈りします。


 2011年9月18日


 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会の梁路子です。

 9月18日、大田(テジョン)に暮らしていたキム・オスンハルモニが亡くなられました。

 故キム・オスンハルモニは、1927年に慶尚北道サンジュで生まれ、19433年に親戚の家に向かう途中で連行され、中国ハルピンで日本軍「慰安婦」という苦しみを味わいました。

 日本の敗戦とともに帰国しましたがすでに母も死亡しており、結局釜山(プサン)などを転々としながら暮らしました。

 その後現在まで大田に住んでいたハルモニは、最近老人専門病院に入院し、昨日は夕食もとられましたが、胸が苦しいと訴えて夕方7時30分ごろに亡くなられました。

 ハルモニの冥福を祈ります。

 葬儀後、ハルモニは天安(チョナン)の望郷の丘で先に亡くなった夫と合葬される予定です。


 2011年9月15日


<声明書>
韓国政府の日本軍「慰安婦」問題二国間協議提案を歓迎!
日本政府は即刻協議に誠実な態度で応じ問題解決を!
 8月30日、憲法裁判所は 日本軍「慰安婦」被害者の賠償請求権と関連し、韓国政府に対して具体的解決への努力を怠たり被害者の基本権を侵害した違憲行為という判決を宣告した。2006年に日本軍「慰安婦」被害生存者109名が憲法請願審判請求を起こしてから、すでに約5年という時間が過ぎ、その間に48名の被害者が亡くなった。こうしてなされた憲法裁判所の判決は、遅まきながら韓国政府の努力を求めた正当な決定だということで、被害者たちはもちろん国民から歓迎を受けた。そして何より、この判決を通じて韓国政府が即刻具体的な努力を見せ、その役割を果たすことを期待する声が高まった。
 幸いにも今日(15日)、韓国政府が日本軍「慰安婦」と原爆被害者、サハリン同胞問題と関連し、日韓請求権協定に基づく紛争解決手続きによって、日本政府に公式的に二国間協議を提案し、日本との全面的な外交的協商を通じた解決努力に風穴を開けた。
 この間日本政府は、日韓請求権協定で個人賠償請求権が消滅したという立場を固辞しながら、公式謝罪と法的賠償など被害者の正当な要求を無視し、国際社会の勧告さえ知らぬふりで一貫してきた。その上、国際社会に対しても、この協定と法的な国家賠償を回避するために作った国民基金で、解決のための努力を傾けてきたかのように宣伝した。
 それにもかかわらず韓国政府は、日本軍「慰安婦」問題が日韓請求権協定対象に含まれておらず、日本政府に法的責任が残っているという立場を示しながらも、協定を根拠にした紛争解決手続きを取らず、積極的な解決への努力も行わなかった。まさにこのような責任放棄を国民の名で厳重に警告したのが、今回の憲法裁判所の判決だったと言える。
 韓国政府がこの判決内容を即刻受け入れ、日本政府に二国間協議を提案したのは大変歓迎すべきことだが、問題は日本政府の反応である。言及したとおり、この間日本政府が日韓請求権協定を武器にして被害者の相当な賠償権利さえ冷たくあしらってきた点を考慮するとき、協商に誠実に臨み果たして既存の立場を変えるのか憂慮を禁じえない。
 私たちは日本政府に強く要求する。自民党政権下で、そして2009年になされた54年ぶりの政権交代後にもできなかった、戦争と植民支配の過ちの清算に対する責任をこれ以上引き延ばしてはならない。恥ずかしい歴史を克服することができず葛藤と反目を行き来する日本政府の無責任さこそ、被害者に対する人権蹂躙を持続させ、より深い傷を与えている醜悪な犯罪行為以外の何ものでもない。
 一日一日をようやく生き延びている日本軍「慰安婦」と原爆被害者、サハリン同胞の人権を早急に回復し問題を解決しないならば、日本政府は世界の人権蹂躙の歴史において最大の犯罪集団として記録されることだろう。
 すでにこの事案において、韓国政府と日本政府の立場上の違いによる葛藤があるということは明白に確認されており、韓国政府が提案した二国間協議は日韓請求権協定が明記している紛争解決手続きを根拠としており、日本政府は誠実にこの協議に臨まなければならない。より鋭い対立や仲裁委員会構成に至るまでもなく、日本政府は今回の韓国政府の協議提案を問題解決の重大な機会と受け止め、即刻解決への努力を行うことを強力に求める。
 また韓国政府もまた、民間団体と被害者が自らの手足で作りあげてきた国際社会の勧告そして国民的念願と支援に力を得て、日本政府に向かって堂々とした外交を繰り広げるよう願う。日本政府の微温的な立場や言いがかりに断固とした意志を表明し、今後日韓請求権協定によるすべての紛争解決手続きを取ることはもちろん、外交的力量をもって早急に問題を解決するよう求める。

2011年9月15日
韓国挺身隊問題対策協議会


玄葉 光一郎 外務大臣 殿
 私たちは、韓国に住んでいる日本軍「慰安婦」被害者です。
 今回新たに誕生した野田佳彦内閣で外務大臣となられ、今後私たちの問題に直接かかわっていくことになられる玄葉光一郎新外相に、日本軍「慰安婦」問題の根本的な解決に積極的に対処されることをお願いするため、不躾ですが手紙を送らせていただきます。
 私たちは、日本の植民地時代に日本軍「慰安婦」として連行され苦痛の生活を強いられました。戦後も被害者として保護されるどころか、傷と苦痛を隠して生きなければなりませんでした。日陰で暮らしながらも20年前、それでも死ぬ前に踏みにじられた名誉を取り戻したいと勇気を出しました。そして日本政府に問題解決を訴えてきました。しかし、この20年間私たちが叫んできた叫びを日本政府は聞きいれませんでした。むしろ日本政府の言葉を聞くよう強いられてきました。韓国政府も私たちの要求を解決するため、外交的努力に積極的ではありませんでした。その間に多くの被害者が亡くなり、「被害者」として名乗り出た234名の登録者中、69名だけが生存している状況です。
 しかしご存じのとおり、8月30日に韓国の憲法裁判所は韓国政府が日本軍「慰安婦」問題解決のための具体的措置をとらないことで基本権が侵害されたとし、政府の不作為にたいし「違憲決定」という画期的な判決を下しました。これを受けて9月15日、韓国政府がすぐに日本政府に二国間協議を提案しました。これは、私たちにとって大きな喜びを与えるニュースでした。過去66年間の苦痛と20年間の努力が、結実を迎えたのだなという希望を再び持つことができました。
 新しく出帆した日本の内閣が韓国政府の提案を受け入れ、日本軍「慰安婦」問題解決のための協議をはじめることを期待しています。そして解決までの時間を引き延ばさないよう願っています。私たち日本軍「慰安婦」被害者は、日本と韓国の間に明るい未来が来ることを心から望んでいます。胸の中にある「無念」も「怒り」も「傷」もすべて解き放ち平穏な心を持ちたいと思います。これ以上日本政府に向かって大声を張り上げたくありません。そのためには、まず過去の歴史を正しく清算することが第一だと考えています。私たちに与えた日本の罪を認め、歴史的で法的な責任を取るという態度を見せるのが大切だと考えます。
 1992年1月8日から毎週水曜日にソウルの日本大使館前で行われている水曜デモは、今年12月14日に1000回を迎えます。私たちは、日本政府が1000回の水曜デモを待つことなく要求を聞き入れ速やかに問題を解決してくれることを要請します。

 2011年9月15日
 日本軍「慰安婦」被害者 53名

 キル・ウォノク、キム・ボクトン イ・スンドク、イ・ヨンス、コン・ジョミョプ、クァク・イェナム、クォン・マルレ、キム・ギョンスン、キム・ギョンエ、キム・ダルソン、キム・ボクトゥク、キム・ボクソン、キム・ブニ、キム・ヤンジュ、キム・ヨニ、キム・オスン、キム・オックィ、キム・ウェハン、キム・ヨジ、キム・ユンシム、キム・ジョンブン、パク・プニ、パク・スニ、パク・ピルグン、ペ・ボンナム、ソン・ナミ、アン・ジョムスン、ヤン・ジェスン、ウ・ヨンジェ、ユ・ヒナム、ユン・グムネ、ユン・スンマン、イ・グィニョ、イ・ギジョン、イ・マクタル、イ・サンヒ、イ・ソノク、イ・スサン、イ・オクソン、イ・ヒョスン、イム・ジョンスン、チョン・ボクス、チェ・ガプスン、チェ・グムソン、チェ・ドンネ、チェ・ソンスン、チェ・オギ、ハ・スイム、ハ・ジョミョン、ハム・グィラン、ファン・グムジャ、ファン・グムジュ、ファン・ソンスン

 2011年8月16日


 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会、梁路子です。

 台湾から訃報が伝わり、胸を痛めていたところ、遅れて韓国の被害者の訃報が入ってきました。

 浦項(ポハン)に暮らしていたキムハルモニが8月16日に亡くなられました。

 本名は明かせませんが……
 ハルモニは、1926年に生まれ、18歳で生産工場職員募集に騙され、中国に連れて行かれました。
 解放後には韓国へ帰ってきましたが、日本軍「慰安婦」被害者だという事実を生涯隠したまま生きてきました。

 7月初めに入院し肺炎の治療を受けていましたが大変苦しそうでした。1ヶ月間重患者室と救急室を行き来し治療を受けましたが、8月16日に目を閉じられました。

 最後の姿は安らかで美しかったそうです。
 ハルモニは火葬され先に亡くなったハラボジがよく登っていたという山に埋葬されました。
 あの世では翼を広げ自由に羽ばたいていることでしょう。

 これで韓国の生存者は69名となりました。

 ハルモニの冥福をお祈りください。



 2011年6月20日


 韓国挺対協から訃報が入りました。
 ついに生存されている韓国政府に登録のある被害者は70名になってしまいました。被害者が次々と亡くなられる最期の日々にあって、私たちに何ができるのか、何をしなければならないのか、本当に考えさせられます。一日たりとも無駄にできません。合掌。
 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会・梁路子です。

 日本軍「慰安婦」被害者の訃報をお知らせします。
 6月20日に馬山(マサン)で暮らしていたイ・ボクスンハルモニが享年90歳で亡くなられました。

 1923年に慶尚南道昌寧で生まれたハルモニは、1940年に連行され中国の慰安所で「慰安婦」生活を強いられました。
 終戦とともに帰国し、テグで過ごし、その後故郷にもどって弟夫婦と暮らしていましたが、弟夫婦が亡くなり、ここ10年ほどは療養院に入っていました。
 5~6年前から体調を崩し、20日前頃から危篤となり老衰で亡くなられました。

 韓国の日本軍「慰安婦」生存者は70名となってしまいました。

 日本からもハルモニの冥福をお祈りください。



 2011年5月17日


 韓国挺対協から訃報が入りました。
 朴玉蓮ハルモニに引き続き、釜山のチョン・マリアハルモニが亡くなられたそうです。本当に明日の一日は今日の一日とは違うのだと、悲しいかな実感させられます。解決を望む支援者にとって、一日たりとも無駄にできません。合掌。
 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会、梁路子です。

 先の週末から日本軍「慰安婦」被害者が続けて2名亡くなられました。

 5月15日(日)午前、ナヌムの家で暮らしていたパク・オンニョンハルモニが入院先の病院で亡くなられました。
 苦労とともに過ごした日本軍「慰安婦」被害者としての人生をこの世において、これからは一羽の蝶になって自由に飛んでいかれることでしょう。
 出棺は17日に執り行われました。詳しいことはすでにナヌムの家から報告されている通りです。

 5月17日(火)明け方6時ごろ、釜山に居住していたチョン・マリアハルモニが亡くなられました。
 前回会った時は健康な姿でしたが、最近になって体調を崩されたそうです。
 90歳を超えても社会情勢に詳しい方でした。
 18日午後1時に火葬され天主教公園墓地に埋葬されました。

 韓国の日本軍「慰安婦」被害登録者234人のうち71名だけが生存されていることになりました。
 お二人の冥福をお祈りください。



 2011年5月15日


 韓国の村山一兵さんから連絡がありました。
 ナヌムの家がソウルにあった頃から生活されていた朴玉蓮ハルモニが亡くなられたそうです。これでナヌムの家がソウルにあった頃より生活されていたハルモニはみな亡くなられてしまわれました。
 皆さん。
 ナヌムの家にて創立期から生活なされてきた朴玉蓮(パク・オンリョン)ハルモニが5月15日午前9時15分に亡くなられました。朴玉蓮ハルモニは1919年、全羅北道茂朱郡の生まれ。今年で93歳でした。
 先週火曜ほどに体調を崩され病院に入院していました。一時は危篤になり心配だったのですが、その後はもち直されたと聞いていたのですが。
 朴玉蓮ハルモニは楊平郡のキル病院に安置されておられます。
(村山一兵)

 この訃報に接して、悲しみに打ちひしがれながら、昔のナヌムの家で撮られた映像を見ました。そこでハルモニの一人がこう仰られていました。
 「申告をして4年にもなるのになぜ早く解決しないんだ」
 4年どころではなく、もう20年が経っています。20年もなるのに……「なぜ早く解決しないんだ?!」
 韓国政府に申告した被害者はこれで72名、当初申告のあった被害者234名のうちもう3分の1以下になっています。私たちが望まなくとも、被害者はこれから加速度的に亡くなっていくでしょう。解決を迎えないまま、被害者がすべて亡くなるその日を迎えるなんて、私には考えることもできません。あってはならないことです。
 私たちに残された時間はありません。一日でも早く真の解決を実現するために、日々を費やしたいと思います。



 2011年3月24日

 韓国挺対協のユン・ミヒャンさんが韓国のメディアに、今回の震災についてコラムを書いています。
 このコラムには、日本軍「慰安婦」被害者が今回の地震の事をどう感じているのかリアルにあらわされています。そして私たちが日本軍「慰安婦」問題をどう受け止めたらいいのか、深い示唆が含まれています。
 ユン・ミヒャンさん自身がそうであるように、私たちは日本軍「慰安婦」被害者から多くのことを、人間として最も大切なことを学ばされます。
 ぜひお読みください。
http://www.tongilnews.com/news/articleView.html?idxno=94070
【コラム】日本の地震被害、「ひと」を中心において考えてみよう
2011年3月24日
ユン・ミヒャン 韓国挺身隊問題対策協議会常任代表
 「罪が憎いのであって、人間が憎いわけではないじゃないですか」

 教会での説教のタイトルで出てきそうなこの言葉は、日本軍「慰安婦」被害者である吉元玉(キル・ウォノク)ハルモニが、今年3月16日に日本軍「慰安婦」問題の解決に向けた第961回水曜デモで記者団に向けて述べたものだ。

 日本軍「慰安婦」被害者たちと韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)は、この日の水曜デモを震災による被災者たちへの追悼の意を込めてサイレントデモで進めた。その集会を取材していた約50人の記者のうちの一人が、ハルモニに質問をした。

 「ハルモニ、日本が憎くないですか?」

 ハルモニは、「罪が憎いのであって、人間が憎いわけではないじゃないですか」と答えた。

 ハルモニのこの答えは、日本が自然災害に襲われてたくさんの尊い命が手の施しようがないまま亡くなり、行方不明になり、また被害を受けている現状をおいて、韓国のある大手の教会の牧師が「日本の地震は神様の警告」と話したという発言とは対照的で、多くの人々の心に穏やかな感動を与えた。

 戦争の中で「獣のような扱い」を受けるどん底の状況下、日本軍の「性奴隷」という恐ろしくつらい経験をした被害者。その戦争が終わって65年が経つ今も、何ひとつ解決しておらず、街頭に立って「謝罪せよ!」「賠償せよ!」と求める闘いを続けている彼女である。そんな彼女に、彼女の考え方の中心には、「ひと」、「人に対する愛情」があったのである。

 3月11日、日本の東北地方に大きな災害が押し寄せてきた。地震と津波はあっというまに日本の東北地方の町を焦土化し、その地域に住んでいた日本の市民はもちろん在日や外国人の命がさらわれた。生き残った人々の被害もとてつもなく、生活の基盤を全て壊してしまった。どうしてあんなことが起きてしまったのだろう。すぐ隣の国で。目の前に流れるニュースの画面が偽りの映画のように思えた。

 しかし、そうしてしばらくニュース画面に気を取られていた次の瞬間、恐ろしいことに、筆者の頭の中をよぎった考えは被災地にいる人々への心配ではなかった。「あっ……これから歴史問題清算の活動はどうやっていけばいいんだろう。災害で国全体がそれどころじゃないというのに。どうやって国会議員たちを説得し、日本政府に向けて過去の過ちを問い詰め、おまけに賠償までしろと闘えばいいのだろうか」という心配だった。

 過去の清算に向けた活動も、平和統一の活動も、人権活動も、結局はその中心に「ひと」を据えたものでなければならない。なのに、ひとよりも「仕事」が中心になってしまっていたのだ。こんな筆者にとって、吉ハルモニの至って普通なその言葉は、全ての混乱が片付くに充分なものだった。

 韓国のインターネット・ポータルサイトに入ってみると、今まさに日本の災害について二つに分かれて討論が行われている。犠牲者のためにお金を集めようという側と、募金には反対するという側がお互い熱心に意見を述べ、署名を行っている。この討論の中心には「日本」がいる。過去に犯罪を犯した日本、そして過去の歴史を歪め、美化している日本、関東大震災のときには朝鮮人を虐殺していた戦犯国である日本、女性たちを日本軍の性奴隷にさせ、人権を蹂躙した日本がいる。これらは、私たちが絶対忘れてはならない日本である。

 その一方、地震の被害から助けようという人々の討論の中にも、「日本」はいる。「日本へ希望を!」「日本へ慰めと愛を!」 隣の国、日本があんな被害に見舞われたのだから、その日本に元気と希望を伝えようということである。

 ここで筆者は、今日本の災害を見て、日本の被害を助けようという側もそれに反対している側もみんな、日本ではなく吉ハルモニが関心をよせている「ひと」を中心において考えてみようと言いたい。

 軍国主義の日本、戦争犯罪国の日本、経済大国の日本ではなく、今まさに被害に見舞われている「人々」のことを考えてみよう。この人々の中には在日朝鮮人も、在日韓国人もいて、外国人労働者がいて、また日ごろ私たちと一緒に一所懸命平和と人権のために力を合わせて活動してきた市民活動家の方々がいる。またその「人々」の中には、植民地時代に日本に自分で渡ってきたか連れて来られ、故郷に帰ることができずに日本に生活の基盤をおいて生きている日本軍「慰安婦」の被害者もおり、徴用や徴兵被害者の方々もいる。そしてそのどちらでもないけど家族の幸せのために、普通に仕事をこなし、普通に暮らしている日本の人々がいる。

 その人々の中で恐ろしい数が今まで犠牲になり、生きていても「死んだも同じ」というべき暮らしに直面しているのである。

 ハルモニたちはしばしば、「本当にもう、日本なんて水に沈んじゃえばいいのに」「地震でも起きちゃえ」みたいなことを口にしていた。これまで日本の右翼が妄言を口にしたときや、歴史の歪曲が伝われるたび、被害者たちとしては他にその怒りを発する道がほかになかったのだ。このような発言は、ハルモニたちが怒りを表す方法だったのである。

 19年間、毎週の水曜日に水曜デモを行ってきたが、日本大使館の門はいつも固く閉じられていた。何十回も日本政府に宛てた手紙や要請書を送ってきたが、ただの一回も答えを返してこなかった日本政府を見て、沸いてくる絶望感の表現でもあったのだ。

 そんなハルモニたちの口から、心から、今「水曜デモを追悼デモにしよう」とか「犠牲者たちのために私たちも募金をしよう」という提案が出ている。恐らく誰よりも、今日本で被害を受けている日本の方々や在日同胞・外国人を含めた「ひと」が面している痛みの深さと大きさを、被害者たちはよく知っているからだろう。

 それでは、これから日本に向けた正しい過去の歴史清算のための活動はどうやっていけばいいのだろうか。「早急な復旧!早急な謝罪!」 これが、同じく第961回水曜デモのことを報道したある日刊紙に載せられた吉ハルモニのインタビュー内容である。

 特に今年は日本の中学教科書の採択が行われる年である。今教科書の検定を実施している文部科学省が3月末に検定の結果を公表し、8月のうちに全国約500ヶ所の地区において来年度から使われる教科書を決めることになる。既に予想されている通り、これらの教科書の中には侵略戦争や不法的な植民地の歴史を正当化し美化する内容や、独島(日本名では竹島)の領有権を主張する内容が含まれている。日本軍「慰安婦」制度に関する記述は既に大分以前から削除されている。

 歴史に関する誤った教育と記憶は、またしも過去の過ちを繰り返さざるをえない現在と未来を改めて生み出すことだろう。そうなるとまた人の命が犠牲になり、人権が無残に踏みにじられる歴史が繰り返される。つまり、日本政府の歴史に対する責任、犯罪に対する法的責任は、どんな出来事でもお蔵入りされたり、後回しにされたり、棚上げにされてはならないものである。

 日本の大震災による被害を早急に復旧できるようにサポートすると同時に、日本が過去の戦争犯罪について明確に責任をとることができるよう積極的な活動は一刻も立ち止まってはならない。

 一日でも早く日本が大震災という惨事から回復し、震災による犠牲者たちへ「ひと」を中心においた温情を傾けた被害者たちの広く大きな心を日本政府が少しでも見習って、過去の歴史の責務を早急に清算することができることを願う。

 2011年3月21日


 韓国挺身隊問題対策協議会より訃報のお知らせがありました。
 覚悟はしていましたが、韓国では今年になって5名の被害女性が亡くなられています。これで韓国で生存されている被害女性は73名……本当にもう、私たちには時間がありません。

 皆さま

 韓国挺身隊問題対策協議会
 梁路子です。

 3月21日に全羅南道に暮らしていたシン・サンシムハルモニが亡くなられました。

 ハルモニは1927年に全南に生まれました。
 1944年、18歳で木浦市場で連行された後、長崎県佐世保海軍慰安所で日本軍「慰安婦」生活を強要されました。
 解放(終戦)と同時に輸送船に乗って麗水港に帰国し故郷に定着しました。
 1992年に日本軍「慰安婦」被害者として申告しました。

 ハルモニの最期の道に
 日本からも冥福をお祈りください。
 私たちのそばにいるハルモニは73人となりました。

 「ハルモニ、安らかにお眠りください」


 2011年3月16日

 毎週水曜日、韓国ソウルの日本大使館前で水曜デモが行われています。今回の水曜デモは、東北地方で起こった大地震を受けて、サイレントデモとなりました。
 「日本の侵略戦争によって人権が守られず、言葉に言い尽くせない苦痛を経たこの場にいる日本軍「慰安婦」被害者たちは、誰よりも現在日本で多くの人々が被っているあの惨状の苦痛と痛みがどのようなものであるかを体で感じています」という一文は、本当に私たちの胸に迫ります。
 ※ またここに書かれている宋神道ハルモニの安否についてなのですが、その後「在日の慰安婦裁判を支える会」のメンバーによって無事を確認され、現在は東京に避難しているそうです。


第961回日本軍「慰安婦」問題解決のための定期水曜デモ声明書
― 日本東北地方大地震の被害者を追悼し ―
 私たちは日本軍「慰安婦」問題を解決するため、1992年1月8日から約19年間毎週水曜日に水曜デモを続けてきました。
 19年の間、1995年に起こった日本の阪神大震災のときを除いては、どんなに寒くてもどんなに暑くても水曜デモを中止することはありませんでした。
 しかし今日の第961回水曜デモは、3月11日に発生した日本の東北地方大地震によって命を失った数千数万の被害者と残された被害者を追悼し、これまでとは少し違う形式でこの場に立つことにしました。
 巨大な自然の力の前で生活の場と家族を一瞬にして失った数多くの犠牲者と被害者に慰労と哀悼の気持ちを送り、今回の水曜デモはサイレントデモとして行うことに決めました。
 
 日本の侵略戦争によって人権が守られず、言葉に言い尽くせない苦痛を経たこの場にいる日本軍「慰安婦」被害者たちは、誰よりも現在日本で多くの人々が被っているあの惨状の苦痛と痛みがどのようなものであるかを体で感じています。
 ハルモニのその気持ちを受けとり、今日の水曜デモは日本の東北地方大地震の被害者を追悼する集会とし、国境と民族を超え東アジアの大惨事をともに回復し、被害現場にいる日本市民と数多くの在日同胞そして外国人の安全と無事救出を祈ります。

 あわせて、最も被害が深刻な宮城県に暮らしていた日本軍「慰安婦」被害者宋神道(ソン・シンド)ハルモニが、今だ連絡がとれない状況をお知らせします。
 日本政府を相手に10年間裁判活動を行い、「戦争はダメだ」「謝罪しろ」と堂々と叫び、最高裁判所棄却判決が下されても「裁判には負けたが、オレの心は負けてない」と私たちに希望を与えてくれたハルモニです。
 ここに私たちは、過去の歴史によって辛い人生を送ってきたハルモニが、今回の惨事で再び過去の悪夢を思い出さないよう、韓国政府と日本政府が積極的に救助活動を行うことを要請します。

 日本軍「慰安婦」被害者の人権と名誉回復のため水曜デモは今後も継続します。
 明日にも絶望がやってくるとしても、今日は希望の木を植える気持ちで、平和と生命が尊重されるそんな世界、人権が大切に扱われ実現するそんな社会を作るため、私たちが先頭に立とうと思います。
2011年3月16日
韓国挺身隊問題対策協議会
第961回日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモ 参加者
 2011年3月6日


 韓国挺身隊問題対策協議会より訃報のお知らせがありました。
 これで韓国で生存されている被害女性は74名……本当にもう、私たちには時間がありません。

 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会 梁路子です。
 3月6日夕方にチャン・ジョムドルハルモニが亡くなられました。

 ハルモニは1923年忠清北道ヨンドン生まれ。16歳のときに連行され、満州・シンガポールなどで日本軍「慰安婦」という苦痛を強いられました。
 解放(終戦)後は慶尚道やソウルなどで過ごし、晩年は仁川に落ち着きました。
 2001年に被害者登録をした後、日本政府に対し名誉と人権回復を求め多くの人々に真実を知らせるため積極的に活動されました。
 2006年にはオーストラリアとドイツで証言集会を、2007年にはカナダ議会決議採択の現場で証言活動をされました。
 つらい状況でも正々堂々ときりりとした態度で臨むハルモニでしたが、最近健康が悪化し入院した後に気力が落ちてしまい、亡くなられてしまいました。
 先日病院で会ったハルモニはいつもと違い涙を見せつつも、温かい春になればどこかに出かけたり水曜デモにも来ると話していましたが、……結局長い別れとなってしまいました。
 ハルモニの冥福をお祈りください。
 韓国の生存者は74人となりました。

  「ハルモニ、安らかにお眠りください」


 2011年2月3日


 韓国挺身隊問題対策協議会より訃報のお知らせがありました。
 挺対協の尹美香さんは「今年はこれまでになく被害者が亡くなられる……そんな予感がする」と仰っていました。被害者はみな90~80代、当然の予感です。
 韓国だけでも今年になってからすでに4人、昨年は10人のハルモニが亡くなられています。
 なんとしてでも、一刻も早い解決を実現させましょう。

 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会の梁路子です。

 旧正月を迎えた韓国で、一人の日本軍「慰安婦」被害者がその生涯を終えられました。
 2月3日午後5時ごろ慶尚北道霊泉(ヨンチョン)に暮らしていたパク・プニハルモニ(91)が老衰で亡くなられました。

 ハルモニは
 1920年に慶北で生まれ、17歳ごろに日本に連れていかれました。
 下関で過ごしていたところシンガポールに行くことになりました。
 解放(終戦)前に韓国にもどり各地を転々としながら霊泉に定着し、甥姪を育てました。
 ハルモニの事情を知っている里長のすすめで日本軍「慰安婦」として登録しました。

 韓国の日本軍「慰安婦」被害者は75人のみとなりました。

 ハルモニの逝く道がさみしくないよう、皆さんも冥福をお祈りください。


 2011年1月13日


 みなさん、またしても韓国挺身隊問題対策協議会より訃報のお知らせがありました。
 キム・ソニハルモニとイム・ジョンジャハルモニです。

 イム・ジョンジャハルモニは昨年11月25日の国会行動に参加された後、大阪を訪問、集会でお話されたハルモニです。
 集会での証言は支援団体が予定稿を代読する形で行われたのですが、ハルモニは代読する発言に記憶を蘇らせ、代読する人の言葉を遮ってご自身で証言されました。その姿に、会場にいる人はみな心を打たれ、涙していました。
 一緒に箕面温泉に泊まり、翌日、お別れの時は茶目っ気たっぷりに「また、会いましょうね」と、日本語で何度もおっしゃってくださいました。
 「今度は韓国にお尋ねしますね」とお約束してお別れしました。
 あれからまだひと月半しかたってないのに、……信じられません。
 あの時の姿を思い出すと、涙を禁じることができません。

 韓国の生存者は76名になってしまいました。もう猶予はなりません。

 皆さま

 韓国挺身隊問題対策協議会 梁路子です。

 訃報が続いています。
 1月13日に二人のハルモニが亡くなられました。
 蔚山(ウルサン)在住のキム・ソニハルモニと馬山(マサン)在住のイム・ジョンジャハルモニです。

 キム・ソニハルモニについては家族の意向で、詳しいことはお知らせできません。

 イム・ジョンジャハルモニは、1か月前から体調が悪化し重患者室で亡くなられました。
 ハルモニは1922年に生まれ、1938年に17歳で釜山近隣地域から満州へ連行され、8年間台湾・香港・大連・上海・ハルピンなどで日本軍「慰安婦」生活を強いられました。
 解放(日本敗戦)後は1946年にピョンヤンの避難所を経て釜山に帰ってきました。
 1958年からは馬山で暮らし、1996年に日本軍「慰安婦」被害者として申告しました。

 昨年11月の東京での院内集会や大阪での集会に参加されたのでご存じの方も多いかと思います。

 ハルモニたちの冥福をお祈りください。


 2011年1月3日


 みなさん、
 大晦日の日にチョン・ユノンハルモニが亡くなられたという悲しいお知らせを送ったばかりなのに……。
 今日、11月に来日された慶尚南道、統営市民の会の宋道子さんより訃報の連絡をいただきました。
 亡くなられたのは統営地域に住むイ・キソンハルモニです。
 去年末、20日ごろから膓間膜梗塞症で病院で生死をさまよった末、本日午前 11時30分頃、恨多い生を閉じられました。

 心からご冥福をお祈りします。

 イ・キソンハルモニの経歴は
 1923年 慶南統営市山陽面韓山面で生まれ。
 1939年 17歳の時、韓山面日本支署で日本の工場へ行けばお金を儲けることができるという話にだまされて、村の娘2人と一緒に統営から船に乗って釜山に行った後、汽車に乗せられて中国ソシュウに連れて行かれた。「タマコ」という名前で6年もの間残酷な日本軍「慰安婦」生活を強要された。1945年秋、日本の敗戦で原住民に追い回されて強制出国あって日本の船に乗って釜山に帰国し、釜山虜収容所で約2ヶ月収容された後、再び船に乗って故郷である統営に帰って来た。
 1993年 日本軍「慰安婦」被害者として申告、登録。
 2004年 日本政府のお詫びと賠償を求めて、日本軍「慰安婦」問題解決のために地域で活動する。
 2008年 歩行不可と持病で療養病院に入院。
 2009年 5月~10月ハルモニの生のはなし、証言映像を撮影。
 2010年12月20日 腸麻痺で晋州慶尚大学病院応急室移送、腸間隔梗塞証で手術ができないという診断が下り、統営の病院に移送後入院。
 2011年1月3日 14日間の死闘の後、午前11時30分頃、恨多い生を後にして逝去。



 2010年12月31日


 韓国挺対協から、また訃報が届きました。ソウルの気温は零下20度と聞きました。こうしている間にも、被害者の生命が刻一刻と削られていってることを実感させられます。
 これで韓国で被害登録されている生存者は79人です。ご冥福を祈り、この悔しさを明日の力に代えてがんばりましょう。

 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会の梁路子です。

 2010年最後の日である12月31日夕方9時にチョン・ユノンハルモニが亡くなられました。
 年越し直前に連絡が入り今日の朝から弔問に行ってきました。
 ちょうど1年前の1月2日に亡くなられたキム・スナクハルモニを思い出します。
 年末年始も関係なくハルモニたちには突然死がやってきます。

 2010年に亡くなった被害者は9人に増え、日本軍「慰安婦」生存者は79人に減りました。
 日韓政府と社会が一日も早く日本軍「慰安婦」問題を解決するよう努力しなければという切迫感を感じます。

 ハルモニがこれからいくところには
 植民地もなく、女性への暴力もなく、娘だと無視され差別されない場所ではないことを願っています。
 故人の冥福を祈ります。


 2010年12月11日

 日韓強制併合100年を機に、日本弁護士連合会と韓国の大韓弁護士協会が東京で日本の植民地支配による被害者救済を訴えるシンポジウムを開き、日本軍「慰安婦」問題を立法で解決するよう求める提言を発表しました。
 提言では、「慰安所」制度が国際法に違反する人権侵害であったことを日本政府が認め、被害者への謝罪と金銭的補償を実施。問題の徹底した全容解明のため、国会や政府内に調査機関を設けるなど、立法措置を行うことを求めています。
 日弁連も大韓弁協も、それぞれの国のすべての弁護士が加入する団体です。 したがってこの提言は、日本と韓国の弁護士会の総意とも言えるものです。しかしこのような社会的影響力のある重大な提言であるにもかかわらず、残念ながらそれほど知られていないのではないでしょうか?
 重みのある事実ほどなかなか知られることのない世の中です。市民の力で、私たちの周囲に広めていきましょう。


日本軍「慰安婦」問題の最終的解決に関する提言

2010年12月

日本弁護士連合会
大韓弁護士協会

はじめに
 日本軍「慰安婦」問題は、女性に対する暴力であり、女性に対する差別の問題である。
 この問題について日本政府は、1993年8月、河野洋平内閣官房長官談話を発表し、この問題が、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であることを認め、被害を受けたすべての人々に対し心からのお詫びと反省の気持ちを表明した。そして、日本政府としての責任の取り方について検討するとともに、歴史研究と歴史教育を通じてこの問題を後世に伝え、歴史の教訓とすることを言明した。
 ところがその後、政権政党や閣僚の中からもこの談話を否定するような発言がなされるなど、この河野談話が日本政府の基本的な立場であることを曖昧にする事態が起こってきた。
 また、その後発足した「女性のためのアジア平和国民基金」は、被害者に対し国庫からではなく日本国民の募金から「償い金」を支払ったために、日本政府の責任を曖昧にするものとの批判を受け、事業を実施した国々においても多数の被害者がその「償い金」の受取りを拒否した。さらに、当初から事業の対象としなかった国も多く、基金自身が認めているように、多くの未解決の問題を残したまま、同基金は2007年に解散した。
 他方、国際社会は、1992年から国連人権委員会や差別防止少数者保護小委員会(人権小委員会)で議論がなされ、1996年にはラディカ・クマラスワミ特別報告者が、1998年にはゲイ・マクドゥーガル特別報告者が日本軍「慰安婦」制度を特に取り上げ、それぞれの報告書の中で日本政府に対する強い勧告を記載した。
 さらに女性差別撤廃委員会では、1994年、2003年、2009年の各日本政府報告審査の最終コメントでいずれも強くこの問題の最終解決を勧告した。同様に国際人権(社会権)規約委員会でも2001年に、拷問等禁止委員会では2007年に、国際人権(自由権)規約委員会では2008年に、それぞれ日本政府に対し勧告を行ったが、国際人権(自由権)規約委員会の勧告はそれまでの各委員会の勧告を集大成するかのように、謝罪と補償、加害者の処罰、市民の教育、事実を否定する企てに反論すること等を含む強力な勧告となっている。ILO(国際労働機関)も条約勧告適用専門家委員会の見解として、毎年のようにこの問題は強制労働禁止条約に違反するとの前提で早急な被害者の救済を求める意見を公表している。
 さらに2007年には、アメリカ下院、オランダ下院、カナダ下院、EU議会の決議として、日本政府に真摯な謝罪と補償等を求める決議が可決され、日本政府に伝達されている。
 このように10年以上にわたって、これほど多くの国際機関から勧告を受け続けた問題は、日本の歴史上かつてなかったといってよい。日本は、改組された国連人権理事会の理事国に自ら立候補し、世界の人権保障の模範となること、及び人権に関する国際条約等の率先遵守を国際的に公約した。この日本政府の立場からみて、女性への差別や暴力を根絶しようとしている国際社会において、日本政府がこの問題の最終的解決を図ることは絶対に避けて通れない課題である。
 日本の国内でもこのような国際社会の動きを受けて、全国で36の市町村議会(2010年11月5日現在)が、政府に対してこの問題を早急に解決するよう求める意見書等を採択している。
 この問題が日本の社会に明らかになってから既に19年が経過し、名乗り出た被害者の多くが亡くなったり、健康を悪化させている。生きているうちに名誉の回復を、と望んでいる被害者にとって、残された時間はますます少なくなっている。今こそ日本政府は、最終解決に向けて本格的な取組を行わなければならない時である。
 今年は韓国併合条約100年の記念すべき年に当たり、本年8月10日には、菅直人内閣総理大臣が談話を発表し、「歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います。この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」と述べた。
 上記のように国際社会が日本政府のこの問題に対する対応を注視する中で、この内閣総理大臣談話の趣旨を具体的な本件課題においてどのように実現するのか、日本政府の取組が問われている。
 日本弁護士連合会は、既に1995年に「『従軍慰安婦問題』に関する提言」を発表し、日本政府に対し、①真相の究明、②公式謝罪と補償、③常設仲裁裁判所の利用、④歴史教育における事実の継承等を求めてきた。そしてその後も、繰り返し会長声明等により、この問題の早期解決を求めてきた。
 今年、韓国併合100年のときに当たり、日本弁護士連合会と大韓弁護士協会は、女性の人権の発展を祈念し、日本政府のこの問題に対する根本的最終的解決を求めて、両弁護士会の総意として以下の提言を発表する。

提 言
第1 日本軍「慰安婦」制度被害者の被害救済のための立法を行うこと。その法律には下記の内容を含めること。
 1 日本軍が今次大戦及びそれに至る時期において、直接的あるいは間接的な関与のもとに設置運営した「慰安所」等における女性に対する組織的かつ継続的な性的行為の強制が、当時の国際法・国内法に違反する重大な人権侵害であり、女性に対する名誉と尊厳を深く傷つけるものであったことを認め、日本国として被害者に対し謝罪すること。
 2 日本国として上記の責任を明らかにし、被害者の名誉と尊厳の回復のための措置として、金銭の補償を含む措置を取ること。
 3 事業実施にあたっては、内閣総理大臣及び関係閣僚を含む実施委員会を設置し、被害者及び被害者を代理する者の意見を聴取して行うこと。
第2 日本軍「慰安婦」問題のより徹底した全容解明のために、国会あるいは行政府内に調査機関を設けるなど適当な措置を取ること。
第3 教育、広報等を通じて、この問題の真相が社会に広く定着し、さらに広く広がるように配慮する。特にこれまでくり返し明らかにされた日本政府の見解を貶める言説については、政府として反論をし、政府の立場を明確にすること。

提言の説明
1 「日本軍『慰安婦』問題」の名称について
 従来、日本弁護士連合会では「従軍慰安婦問題」と呼称してきたが、この呼称に被害者から異論が出ていることも踏まえ、両弁護士会協議のうえ、「日本軍『慰安婦』問題」とした。
2 被害者救済のための「立法」提案であること
 法律を制定するまでもなく、内閣のもとに、この問題解決のための特別委員会あるいは関係閣僚委員会のようなものを作って、内閣の主導のもとで直接行政手続として事業を実施すればよい、という意見もある。
 しかし、事業の目的を明確にし、安定的に事業を実施すること、受給の条件等を客観的に明確にしておくことなどのために、法律の制定は必要である。
3 被害把握の対象期間
 1931年から1945年までとするが、表現としては「今次大戦及びそれに至る時期」とする。
4 対象事実
 旧陸海軍が直接的あるいは間接的な関与のもとに、女性に対し組織的かつ継続的な性的行為の強制を行ったこと、とし、旧陸海軍の行為であることを明確にする。
5 対象事実の評価
 当時の国際法・国内法に違反する行為であったこと、そしてそれが女性の名誉と尊厳を深く傷つけた行為であったことを明確にする。このことは、河野内閣官房長官談話をあらためて再確認することでもある。
6 法の目的
 この法律は、日本政府として事実を認め、すべての被害者に対し謝罪し、その名誉と尊厳を回復する措置を定め、実施するための手続を定めることを目的とする。そしてこの「慰安婦」問題の最終的な解決を図ることによって、日韓両国のみならず被害国と日本との間の真の友好関係を強め、人権の伸長と国際平和に貢献することを目的とする。
7 名誉と尊厳の回復のための措置
 名誉と尊厳回復のための措置としては、金銭による補償を含み、その他の方法(例えば医療給付やリハビリなど)もあり得るという含みを持った表現とした。
8 実施の具体的方法
 具体的な事業実施については委員会の設置が必要であると考える。そしてこの委員会の構成には、政府や関係省庁の協力を確保するため、内閣総理大臣をはじめ関係閣僚を含むこととする必要がある。また、被害者の意見を代理するものを含めるとするか、あるいは実施に当たってはこの委員会が被害者を代理する者の意見を聞いて行うとするか、いずれにしても被害者の意見を尊重する仕組みが必要である。
9 全容解明のための措置
 日本軍「慰安婦」問題は、いまだ十分に解明されていない。各政府機関に存在する記録等の開示を含め、日本政府としてさらに徹底した全容解明のための機関を作り、予算措置を講ずるなどのための立法措置、行政措置等可能な措置を講ずる必要がある。それらを含んだ表現として「適当な措置」としたが、内容は前記の実効的な方法を取ることである。
10 教育及び広報について
 1993年に河野内閣官房長官談話が政府の基本的な立場として明確にされ、その後の内閣総理大臣は例外なくこの河野談話の立場を承継すると言明してきた。しかしその内閣の中で閣僚からこの談話を否定するような発言が出され、しかもそのことについて日本政府の立場として非難したり、訂正したりすることなく放置されてきた。そのために、日本政府は極めて不誠実な態度をとっているとの国際的な非難を免れなかった。
 このようなことが再々起こる背景には、日本の社会のなかでこの問題の実情や問題の本質が十分に知られていないことがある。そこで、教育を通じて次代の世代に、また広報を通じて現代の日本社会のなかに、この問題の実相がきちんと定着するようにする必要がある。
 そして、もし今後河野談話を貶めたり、否定する言説が行われた時には、日本政府の立場としてこれを否定し、反論し、政府関係者であればその責任を問う必要がある。そのようにして初めて日本政府の立場が一貫するといえるからである。


 2010年12月10日


 韓国挺対協から、シム・ダリョンハルモニに引き続き訃報が届きました。
 これでついに韓国で被害登録されている生存者は80人となってしまいました。

 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会の梁路子です。

 数日前にシム・ダリョンハルモニの訃報をお知らせしたばかりですが、引き続き悲しいお知らせを伝えることになりました。

 全羅北道益山(イクサン)に暮らしていたイ・ヤングンハルモニが亡くなられました。

 1923年に益山で生まれたイ・ヤングンハルモニは、1942年に紡績工場に就職させてやるとの言葉にだまされ、シンガポールで解放(終戦)を迎えるまで日本軍「慰安婦」生活を強いられました。
 解放後帰国しましたが生活は困難でした。老人性疾患で苦しまれ、突然の脳梗塞で倒れてから一日もたたず、今日(12月10日)午後4時42分にこの世を去られました。

 シム・ダリョンハルモニ、イ・ヤングンハルモニの逝去で、韓国の日本軍「慰安婦」被害生存者は80人のみとなってしまいました。

 日本からもハルモニの冥福をお祈りください。


 2010年12月5日


 韓国挺対協から、今年に入って8人目の訃報が届きました。
 このところ訃報を聞くこともなかったのですが、日本で証言集会を開く度に、ハルモニたちの辛そうな身体に心を痛めていました。またお一人お亡くなりになられ、本当に堪りません。
 シム・ダリョンハルモニといえばビョン・ヨンジュ監督のドキュメンタリー映画『息づかい』に出ておられました。あの映画を撮られたのは10年以上前。……本当に時間が経ちすぎています。83歳というお歳は、「慰安婦」被害者の中では最も若いのですが、なくなるのに決して早いわけではありません。本当に、本当に、私たちには時間が残されていないのです。
 なんとしてでも今すぐ解決を実現しましょう。

 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会の梁路子です。

 テグの市民の会から訃報が伝えられました。
 今年下半期は悲しいお知らせをしないまま年を越せると思っていましたが、、、
 12月5日午後7時50分にテグに住むシム・ダリョンハルモニが享年83歳でこの世を去られました。

 シム・ダリョンハルモニは
 1927年7月5日に慶尚北道漆谷郡の貧しい村で生まれました。
 12歳ごろに姉と野草取りに出かけたところ日本軍につかまりトラックに載せられ台湾の慰安所に連行されました。
 そこでの暴行と精神的ショックで長い間精神病を患いました。
 解放(終戦)後に韓国に戻りましたが、何も記憶できず病気に苦しみました。
 口もきけなかった姉を妹が見つけて家に連れて帰り看護しました。
 日本軍「慰安婦」被害の後遺症で子宮頚部がん手術を受けるなど、様々な病気を抱えながらも、奪われた名誉と人権を取り戻すため活発に活動されました。

 ハルモニは、2010年6月末から肝臓がんで入院し、痛みに苦しみました。
 生前には日ごろから戦争が起こって自分のような苦しみを受ける人がないよう努力することをお願いされ、病床では「人のように生きられなくて悔しい。生きて日本政府が謝罪するのを必ず見なければならないのに、、、」と話していました。

 ハルモニの最後の逝く道が寂しくないよう日本からもお祈りください。

 伊藤孝司さんのHPでシム・ダリョンハルモニのルポを読むことができます。<記事の外部リンクはこちら>
 ハンギョレ・サランバンのシム・ダリョンハルモニの訃報記事。<記事の外部リンクはこちら>


 2010年9月11日


 韓国挺対協から、今年に入って7人目の訃報が届きました。

 

 日本軍「慰安婦」被害者チン・ファスンハルモニの訃報をお知らせします。
 故チン・ファスンハルモニは、1930年に全羅南道チャンソンで生まれ、15歳の時に光州にある製糸工場で働いていたところソウルの会社に就職させてやるとの紹介を受け、結局満州に連行され、「ハルコ」という名前で日本軍の性奴隷となり苦しい生活を送らなければなりませんでした。
 解放後、上海を経て釜山港に帰還し結婚もしましたが、日本軍「慰安婦」という過去がばれて離婚され、最近になって入院するまで全羅北道チョンウプで一人で暮らしていました。
 挺対協スタッフが訪問するといつもチキンを出前しゆで卵でもてなしてくれ、若いスタッフの苦労をねぎらい感謝を伝えていたハルモニは、健康な時には事務所によく電話をかける方でした。
 電話をかけてくる度に「私だよ~チョンウプ(に住んでいる)ハルモニ。誰だい?」と、甲高い声で会いたい、いつ来るんだと尋ねました。
 そして近くの山の紅葉が散る頃は本当にきれいだと、必ず遊びにおいでと何度も言われました。
 ところが1年前から手術と入院を繰り返していたハルモニが、突然秋を目前にして、美しい紅葉をスタッフに見せられないまま恨多いこの世をさられました。
 いくつかの峠を越え死闘を繰り返していたハルモニが、再び奇跡を起こし遊びにおいでという電話をくれることを願っていましたが、今日(9月11日)午後5時40分ごろに目を閉じられました。

 日本帝国主義が朝鮮半島を強制併合して100年
 植民地から解放されて65年
 何の変化もなく過ぎていくのがどれほど恨めしかったでしょう。
 ハルモニは私たちに再び日本軍「慰安婦」問題解決に時間がないことを悟らせてくれ、ハルモニが生前になすことのできなかった日本政府からの公式謝罪と法的賠償実現の責任を私たちに託したまま亡くなられました。
 今年に入って7人のハルモニが亡くなられ、234人の申告者中82人のみが生存されています。

 故チン・ファスンハルモニの出棺は9月13日午前に行われる予定です。
 その後、天安の望郷の丘にすでにいらっしゃる「慰安婦」被害者たちの横に眠られます。
 ハルモニが逝った場所には、戦争もなく植民地の屈辱的な人生もない平和な場所であることを願い、ハルモニの冥福を祈ります。

 「ハルモニ、安らかにお眠りください!」


 2010年8月11日

 2010年8月11日は世界中で同時に水曜デモが取り組まれます。もちろん日本でも、日本軍「慰安婦」問題の解決に取り組む市民団体が各地で取り組みを行います。
 日本軍「慰安婦」被害者のハルモニたちはこの10年間、雨の日も風の日も、毎週水曜日ソウルの日本大使館前でデモを行ってきました。11日で930回にも及びます。
 被害者が老体を押してこれほどがんばっておられるのに、未だ解決できていないというのは、本当に悔しく、私たちの責任を痛感します。なんとしてでも被害者に解決を、謝罪の声を届けなければと思います。

 韓国での水曜デモの声明を是非お読みください。



韓国強制併合100年、解放65年
日本軍「慰安婦」問題解決のための世界連帯行動の日
および
第930回定期水曜デモ 声明書
 今日、私たちは過去一世紀の節目で綿々と刻んできた痛みと抑圧の歴史が、いまだ癒されず傷ついたまま、目の前に立ちふさがっていることを全身全霊で感じている。日本帝国主義の刃が民族と民衆の命を漆黒の闇に突き落とし、100年という歳月が流れたが、解放を迎えたと言えど私たちの時計の針は今も解放を指し続けている。それは、女性の体、民衆の命を狙った軍国主義の刃を引き抜き、被害者が真の解放へ向かって羽ばたくその日まで、この叫びを止めることはできないからである。
 世界史に恥ずかしい野望行為として残る組織的な性奴隷制度を縮小・歪曲しようとする日本政府は、この叫びをはっきりと聞かなければならない。口にすることも苦痛である過去の記憶をそっくりそのまま現在に伝え、個人の不幸を超え人権と平和実現のための人類共同の課題として昇華させるまで沈黙を破り名乗りでた被害者を支持する世界市民の声は、今まさに地球のいたるところを熱くしている。
 日本政府は、暴力で染まった過去の世紀を終わらせ、平和の種を蒔き新しい歴史を記そうとする世界市民の声をはっきりと聞かなければならない。国連をはじめとする国際機構の勧告採択、そして国会決議を通じ問題解決を求めてきた国際社会の要求を謙虚に受け入れ、速やかに履行しなければならない。不当な人権蹂躙に立ち向かい、真実を叫び、死ぬ直前まで叫び続ける被害者の訴えに耳を傾けなければならない。日本全域で草の根運動を広げ、国家的責任履行を求めてきた日本民衆が心から望むものが何なのか、その民意をはっきりと読みとらなければならない。暴力と抑圧に屈せず、連帯の手を携えてきた女性たちの闘いは、決して中断しないことをはっきりと知らなければならない。
 日本軍「慰安婦」問題をはじめとし、数多くの植民犯罪や戦争犯罪を歴史歪曲と回避で覆い、今日に至るまで持続的な人権蹂躙を恣にしてきた日本政府を強く糾弾し、日韓の新しい100年を平和と相生の関係に変える責任が日本政府にあることを再度強調する。新しい政権樹立に続き、歴史の転換期を迎えた現在、日本政府は葛藤と反目を生んだ過去の政府の影をきれいさっぱり洗い流し、東アジアを超え人類共同体の新しい歴史を記す意志を証明しなければならず、そのためには日本軍「慰安婦」問題解決と正しい過去清算を迅速に履行しなければならない。韓国強制併合100年を迎え発表された菅直人日本総理の談話でも、日本軍「慰安婦」問題など重大で急がれる人権侵害問題についての解決策は何ら示されなかった。その限界を明白に認め迅速な問題解決を求める。
 韓国政府にも要求する。果たして韓国政府が日本軍「慰安婦」被害者の人権に関心を持っているのか、私たちは問いたださずにはいられない。80、90歳の高齢の体で、冬には寒く夏には暑いここ日本大使館のセメントの上で、19年間毎週水曜日ごとに日本軍「慰安婦」被害者たちが、日本政府に問題解決を!韓国政府に積極的な外交的行動を!求めてきたにもかかわらず、日本政府も、韓国政府も、何の反応をも見せずにいる。これが韓国強制併合100年、解放65年に私たちが直面している現実である。韓国政府は、人権を度外視した経済的実利主義では決して国民の意思を代弁できないことをはっきりと知り、日本軍「慰安婦」問題と過去清算がこれ以上被害者と市民社会の役割にすりかえられ放置されないよう、より積極的で明確な外交的・政策的努力を傾けなければならない。
 国際社会も、国際機構の勧告と各国議会で採択された決議さえ回避している日本政府に戦犯国家の責任を明白に履行するよう促し、日本軍「慰安婦」問題のような反人類的犯罪が再発しないよう、平和と人権の世界史を創造することに賛同しなければならない。
 日本軍「慰安婦」問題解決が成されるその日まで、ともに叫ぶ私たち女性と世界市民は、最後まで闘うことを今日再び明らかにする。ここに、暴力と人権蹂躙、女性抑圧を生んだ全ての戦争と軍国主義に反対し、次のように要求する。
 ―― 日本政府は、国際社会および日韓地方決議の勧告と要求を即刻受け入れ、立法を通じ日本軍「慰安婦」問題を迅速かつ明白に解決せよ!
 ―― 日本政府は、韓国強制併合100年を迎えた今年、植民犯罪と戦争犯罪を必ず清算し、平和な日韓関係と東アジア共同体確立のため努力せよ!
 ―― 韓国政府は、「恥辱の100年」の歴史を堂々と正しい日韓関係を確立する歴史に変え、自国民の人権回復と正しい過去清算のため外交的・政策的努力を履行せよ!
 ―― 国際社会は、日本軍「慰安婦」被害者に名誉と人権が回復されるよう積極的に支援連帯し、地球上の終わりのない戦争で人権蹂躙を受けている被害者には新しい希望を、戦争犯罪者には厳重な警告を、伝えなければならないだろう。これを通じ、戦争中断と女性への暴力中断、人権と平和実現のためともに努力せよ!

2010年8月11日

韓国強制併合100年、解放65年
日本軍「慰安婦」問題解決のための世界連帯行動の日
および
第930回水曜デモ 参加者一同

(翻訳:挺対協)
 2010年8月10日


 みなさん、8月10日に出された菅談話、どう思われましたか?
 このHPではあえて評価は差し控えたいと思いますが、みなさまの考える一助に、韓国挺対協の声明と、その日の朝日新聞の報道を掲載します。

<韓国挺身隊問題対策協議会 声明>
韓国強制併合100年を迎え発表された
菅直人日本総理の談話に対する私たちの立場

--日本軍「慰安婦」問題など重大で緊急な植民地被害に対する具体的反省および解決への努力を盛り込むことのなかった菅総理の談話に失望を禁じることができず、迅速な問題解決を求める--
 日本帝国主義による韓国の強制併合が100年を迎えた今年、この歴史的な時期を迎え、私たちは今こそ正しい過去清算を成し、真の友好的な日韓関係を創造していくことを望んでいる。そのような中で今日8月10日、日韓強制併合100年に対する菅直人日本総理の談話が、思ったよりも早く発表された。
 
 今回の談話で、過去の過ちを振り払い未来志向的関係を築くとの日本政府の中身のない言葉遊びを改めて確認することができた。
 今回の談話は、1995年8月に戦後50年を迎えて発表された村山談話から一寸の発展もなかった。戦後50周年を迎え発表された村山談話や、これに先立ち日本軍「慰安婦」問題について意見を表した河野談話も、今回の菅総理の談話のように植民地被害に対する具体的な解決策を提示できず、また談話の意味を完成させるだけのこれといった行動もなかった。そのため、被害国政府および国民から反対と糾弾がやまなかったことを日本政府は看過してはならない。
 
 1995年の談話後、約15年間国連やILOなど国際機構は、数回にわたり日本政府に日本軍「慰安婦」被害者に法的責任を取ることを求めてきており、今も国連とILOでの要求は続いている。アメリカとヨーロッパ連合をはじめとした世界各国議会でも、日本政府に「慰安婦」被害者に対する謝罪と法的賠償などを求める決議を採択した。
 韓国と日本地方市議会では、日本政府に「慰安婦」問題解決を求める意見書や決議採択が湧き水が吹き上がるように継続している。それにもかかわらず、菅総理の談話にはこのような国際社会の要求に対する答弁を全く反映させることができなかった。
 また十数年の間、日本大使館前で毎週水曜日に日本政府に謝罪と賠償を求めている高齢の日本軍「慰安婦」被害者たちの要求についても、解決策を提示できなかった。
 日本国内右翼勢力と反対派の声に汲々としたせいで、韓国強制併合100年を迎える談話は、植民地被害者および日韓両国関係で何の進展も見出せない困難な条件を日本自らが作ってしまった。
 
 私たちは、日本政府が何よりも先に実行しなければならない緊急であり、重要な事柄に責任ある措置と明確な履行決議を示すことができなかったことについて遺憾を表し、植民地被害者の問題解決のための迅速な行政的・立法的措置を再度要求する。植民地支配と日本の戦争遂行時期、その血生臭い歴史の渦の中でも、非常に残忍な苦痛を体験した被害者と生存者に対する真の謝罪の意味を表するためには、具体的な解決法案を提示もしくはそれを担保とする明確な意思表現が成されなければならない。
 性奴隷という凄惨な苦痛のくびきを抱いて19年間叫び続け、明日で930回の水曜デモを迎えることになる日本軍「慰安婦」被害者たち、兵力や労役として連れて行かれ戦争の砲火を全身で受け止めなければならなかった被害者たち、未だ基本的な権利さえ保障されないまま日本社会の差別と暴圧の中で暮らしている在日同胞とその子孫にいたるまで、間違いなく日本政府が謝罪し法的責任を負わなければならない問題について、今回の談話は全く触れていない。
 被害者の問題は、今後の同伴者的日韓関係のために植民地加害国の日本政府がきちんと責任を取らなければならない部分である。すでに被害者のほとんどが亡くなり、生存している場合も高齢である方々に、これ以上人権回復と問題解決を待つ時間的余裕がないことを、日本政府が知らないわけではないだろう。この優先しなければならない課題に対して何の答えもないというのは、失望を超え私たちに怒りを感じさせる。
 
 結局韓国強制併合100年を迎え発表した今回の菅直人総理の談話が、ここに来て全く触れることのなかった解決策を補完し、今後歴史的意味を明確にさせるためには、談話の内容に相応し、またこれを超える措置をとることが必要である。
 加えて、「両国間の未来をひらくために不断の努力を惜しまない決意」の中には、日本軍「慰安婦」問題に対する立法的解決はもちろん、人権蹂躙と植民犯罪被害者問題を具体的に解決していくという意志が含まれなければならない。今後、独島(竹島)に対する領有権の主張や、被害者に対する妄言などが継続的に繰り返されるならば、これもまた談話の価値を下げることになるだろう。
 
 韓国政府もまた、今回の菅直人総理の談話に対し、日本軍「慰安婦」被害者問題解決などに相応する措置を外交的に求め、談話の中に実現されなかった自国民の人権回復と正しい過去清算に対し、確固とした努力を傾けなければならない。韓国強制併合100年という時期を経る両国の現政権が持つ歴史的責任は、決して回避しても看過してもいけないことを何度強調しても足りはしないだろう。
 平和的で友好的な紐帯関係のため、日韓両国政府が画期的で明確な努力を傾けることを再度求める。

2010年8月10日

韓国挺身隊問題対策協議会
共同代表 尹美香(常任)

(翻訳:挺対協)
 2010年6月28日


 韓国挺対協から、今年に入って6人目の訃報が届きました。
 本当に毎月のように接しなければならない訃報に、心が掻きむしられます。なぜ私たちは日本政府の真の謝罪と補償が実現できないのでしょうか。折しも日本では参議院選挙真っ只中ですが、被害者の心情を理解していても日本軍「慰安婦」問題の解決を街頭で訴える候補者はほとんどいないというのが、わたしたち日本社会の現状です。そんな現状でも被害者の訃報を受け容れなければならないという現実は、本当に苦痛でしかありません。
 何としてでも一日も早い問題解決を実現させるために、日々努力していきたいと思います。決意を新たにしましょう。

 6月議会では各地で続々と意見書が可決され、韓国でもそのニュースに喜んでいます。
 しかしそのニュースを聞くことがないまま、ハルモニたちは一人二人と亡くなっていきます。

 6月28日、慶尚南道居昌(コチャン)に暮らしていたパク・スニムハルモニが亡くなられました。

 1920年にコチャンで生まれたパク・スニムハルモニは、テグに住んでいた1939年12月に路上で日本警察に連行され、釜山・上海などを経て中国で解放を迎えるまで日本軍「慰安婦」としてつらい日々を送りました。
 終戦後、1年以上中国で暮らし、上海から帰国しました。
 最近まで様々な病気と老衰でコチャン病院に入院していましたが、28日午前8時30分ごろに目を閉じられました。

 ハルモニが寂しくないよう、多くの方々が冥福を祈ってくださるようお願いいたします。


 2010年6月16日
 
 菅新政権誕生を受け、韓国挺対協とハルモニたちが新総理に向け要望書をソウル日本大使館に手渡しました。
 本来であれば水曜デモの時に手渡したかったものの、その時間には大使館職員は一人もいないとのことで、少し早い11時半に、イ・スンドク、キム・ボクトン、キル・ウォノクハルモニの3人が大使館の中に入り、職員に要望書を手渡しました。ハルモニは「私たちの残り時間は短いので、早く解決してくれるようお願いします。いつも要望書を出しても返事をもらうことができませんでした。お返事をいただければうれしいです」と仰っていたそうです。
 


要  望  書
 菅直人 内閣総理大臣 殿
 6月4日、94代総理に菅直人民主党代表が選出され、8日には新たな内閣が誕生しました。私たち韓国挺身隊問題対策協議会は、菅新内閣に日本軍「慰安婦」問題の立法解決を実現するため一層の努力を傾けていただくことを求め、要望書を送ります。

 8ヶ月という短命に終わらざるを得なかった鳩山総理の辞任理由は、大きく沖縄普天間基地問題と政治資金問題にありました。特に、普天間基地問題では、鳩山総理は当初の県外移転という公約を覆し、結局は自民党が主張していた辺野古移転という原案に帰結したことにより、市民からの支持を失いました。このような状況は、私たちを期待させたこれまでの発言や公約が、虚言になるかもしれないとの憂慮を感じさせました。

 2009年の民主党インデックスには、戦後諸課題の取り組みとして、「国会図書館に恒久平和調査局を設置する国立国会図書館法の改正、シベリア抑留者への未払い賃金問題、慰安婦問題等に引き続き取り組みます」と明記されていました。しかし、「慰安婦」問題については何らの進展もなく解決の糸口さえ見えていません。また、民主党を中心として2000年から提出されてきた「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」は今年で提出10周年を迎えましたが、昨年からは国会に上程されることすらありませんでした。

 韓国の日本軍「慰安婦」被害者が名乗りをあげ、日本政府に対し問題解決を要求するようになって20年近くが経ち、13歳の時に連れて行かれ「慰安婦」にさせられた少女は、83歳になりました。70年もの間、苦痛の中で生きてきた被害者への心のこもった謝罪とそれに基づく賠償は、今この時期を逃してはありません。

 2007年に米下院で日本軍「慰安婦」問題解決に関する決議が採択され、各国・国際機関が日本政府に問題解決を求めてきました。また、日本国内でも21都市が、日本政府に日本軍「慰安婦」問題に誠実に対応することを求める意見書などを可決しています。日本軍「慰安婦」問題解決を求める日本国内外の声は、これ以上なく高まっています。先日日本を訪問した国連人権高等弁務官は、日本軍「慰安婦」被害者とも会い、戦時性奴隷被害者に対して謝罪・補償し、最終的な解決を実現するよう日本政府に訴えました。そして、「これまで中途半端な対応が多すぎたため、被害者の満足が得られてこなかった」「新政府は、この悲惨な過去を清算するだけでなく、これを地域の他の国に対して肯定的な模範を示す機会とすることができる」と述べました。国連理事会第14会期でも、女性暴力特別報告官が「女性暴力に対する賠償」報告書の中で、日本軍「慰安婦」問題に対する日本政府の賠償責任を強調しました。
 日本軍「慰安婦」問題は、今やアジアだけでなく世界の人権問題となっています。世界中で沸き起こっている声に耳にを傾け、真の解決をめざして取り組むことが、日本政府の果たすべき役割でしょう。

 今年は韓国併合100年を迎える年です。まさにこの時期に就任した菅総理が、どのようなメッセージをアジアに向けて発信するのか注目されています。1995年に「村山談話」が発表され植民地支配に対する言及がありました。しかし、「引き続き誠実に対応」するという言葉とは裏腹に、「戦後処理」はきわめて不十分な結果に留まってしまいました。今年8月には「村山談話」を超え、首相談話として戦後補償問題解決に対する積極的な発言があることを期待しています。また、次期国会で具体的な政策を提示していただけるようお願いいたします。

 日本軍「慰安婦」問題に対し、徹底した真相究明と公式謝罪、そして法的賠償を一日も早く明確に成し、一人でも多くの被害者が生きているうちに人権および名誉回復がなされなければなりません。何よりも菅新総理が継承すると誓った「東アジア共同体」を確立するためには、まず過去の歴史を清算し正しく解決しなければならないでしょう。この問題の解決は、アジアの人々との真の和解と平和につながります。

 菅新総理が、まさに草の根のように信念を曲げず強い政治を行い、日本軍「慰安婦」問題の真の解決に心血を注いでいただくようお願いいたします。

2010年6月16日

韓国挺身隊問題対策協議会(共同代表 尹美香 韓国琰)
韓国女性団体連合、全国女性連帯、韓国女性民友会、梨花民主同友会、韓国女性ホットライン連合、平和を作る女性会、韓国女子修道会長上連合会、基督女民会、KNCC(韓国基督教協会協議会)、基督教大韓メソジスト会全国女教役者会、大韓イエス教長老会全国女教役者連合会、女性教会、韓国教会女性連合会、韓国基督教長老会女信徒会全国連合会、韓国基督教長老会全国女教役者会、韓国女神学者協議会、韓国挺身隊研究所、大韓メソジスト会女宣教会全国連合会、新しい世界を開く天主教女性共同体
(翻訳:挺対協)
 2010年5月中旬~6月中旬


 5月中旬、ナヴィ・ピレイ国連人権高等弁務官が来日しました。マスコミ報道では、拉致被害者家族との面会ばかりが取りざたされていますが、ピレイ高等弁務官は日本軍「慰安婦」問題にも言及しました。
(以下国連人権高等弁務官事務所記者発表より抜粋/翻訳:戸塚悦朗さん)

 高等弁務官はまた、「慰安婦」問題について、何千と言う戦時性奴隷被害者に対して謝罪し、かつ補償し、最終的な解決を実現するよう日本政府に訴えた。「これまで中途半端な対応が多すぎたため、被害者の満足が得られてこなかった」「新政府は、この悲惨な過去を清算するだけでなく、これを地域の他の国に対して肯定的な模範を示す機会とすることができる」とピレイ高等弁務官は述べた。

 この「中途半端な対応」というのは、明確に国民基金に対して向けられたものです。ここでは国民基金に対する批判は述べませんが、実際問題として被害者が「解決していない」と主張していることを述べるだけでも十分でしょう。
 この件に関して、国際的な人権法律家であり『促進法案』の産みの親の一人でもある戸塚悦朗さんは、こう述べています。
 「人権理事会での日本政府の発言は、国際社会での公式の日本政府による声明です。国内で言えば、国会答弁と同じです。『慰安婦』問題は、東アジアだけでなく、世界の人権問題となっていることを認識する必要があるでしょう。新政府が構成されるまでの間に、官主導で既成事実が作られ、旧政権の政策をそのまま新政権も継承しているかのような印象を世界に発信しているのです。これでは、民主党中心の鳩山内閣、菅内閣の力量が問われることになるでしょう。」

***

 そして国連では5月13日から6月18日まで国連人権理事会が開催されました。
 国連の女性暴力特別報告官は報告書で日本軍「慰安婦」被害者に対して賠償がなされていないのは、女性に対して伝統的に無視を決め込む代表例と、厳しく指摘しました。特に被害者が国民基金を拒否した事に触れ、公式謝罪と国家的責任を認めない経済的な補償を望んでいないと指摘しました。
 これに対し、日本政府はこのように答弁したといいます。
(以下挺対協のアピールより抜粋/翻訳も挺対協)

 「日本軍『慰安婦』問題に対し、日本政府はすでに最大限厳格に調査を行って結果を発表し、談話を通じて多くの女性の名誉を損なったことを明らかにしてお詫びした」
 「政府と日本国民の論議により、『アジア国民基金』を設立して償い金と医療支援などを提供し、総理の手紙を送り被害者にお詫びと遺憾を表した」
 「この問題に対する道徳的責任感を認め、きちんと向き合っている」

 韓国政府が「国連女性差別撤廃委員会(CEDAW)が、最近まで日本軍『慰安婦』問題が解決されていないことを指摘しており、韓国政府は日本政府が速やかにこの問題を解決することを求める」と2度にわたり求めましたが、日本政府は「遺憾と謝罪を表した」と繰り返すだけでした。

 政権交代が行われた今も、いまだに国民基金を引き合いにして、国連に勧告を出されても応じることなく従来通りの答弁を繰り返しています。
 国連の女性暴力特別報告官が指摘するとおり、被害者が望むのは国民基金のような不十分かつ施しのようなものではなく、国家的責任認定に基づく賠償と公式謝罪です。被害者の望む解決が遂行されない以上、それは「道徳的責任感」認めたことにはならないし「謝罪」したことにもなりません。
 このような日本政府の逃げを認めさせず、なんとしてでも日本政府に真の謝罪と補償を実現させましょう。


 2010年5月16日

 5月16日、キム・ゲファハルモニが釜山市の養老病院でお亡くなりになられました。享年89歳でした。
 これで韓国政府に登録された「慰安婦」被害者は84名になりました。

 1921年に慶北・霊徳(ヨンドク)に生まれたハルモニは、17歳の1938年に日本軍「慰安婦」として中国の青島と日本の北海道の「慰安所」に連行されました。解放後は日本にとどまり、1979年に帰国しましたが、母親のお墓を訪ねただけで、家族や親戚を探そうとはせず、一人で暮らしてきました。
 58歳になるまで日本で暮らしておられたハルモニは、なぜそのお年になって帰国を決意されたのでしょうか? そして帰国された後も身寄りもなく一人で……。そのハルモニの孤独な心の傷を思うと、本当に胸が痛みます。そして私たちの責任を痛感せずにはおれません。
 数年前から膀胱癌を煩い、この3年は養老院と病院を往復する日々でした。亡くなられた後は、多くの在日同胞が眠る忠清南道天安市の「望郷の丘」に埋葬されます。

 そう遠くない日に、心のこもった謝罪の声を「望郷の丘」にお届けしたいとおもいます。必ず。


 2010年3月11日


 今年に入って4人目の訃報をお届けします。
 一体私たちはどれだけ被害者の訃報を耳にすればいいのでしょうか?
 日本政府の謝罪と補償、被害者の尊厳回復に向けた私たちの取り組みが実現しない現状の中で、被害者の訃報を受け容れなければならない現実は、本当に苦痛でしかありません。
 何としてでも一日も早い問題解決を実現させるために、日々努力していきたいと思います。決意を新たにしましょう。

 コジェに暮らしていたイ・ドスンハルモニが、3月11日に亡くなられました。9日に急性心筋梗塞で意識不明の状態のまま病院に運ばれたイ・ドスンハルモニは、死闘の末、この世を去られました。
 お葬式は市民社会団体葬として執り行われます。
 ハルモニの冥福をお祈りします。

【故イ・ドスンハルモニ略歴】

1922年 慶尚南道コジェ市で出生。
1939年 17歳で工場に就職させてやるとの言葉にだまされトンヨンから船に乗ってプサンへ行った後、汽車に乗って中国に連行され、6年間苛酷な日本軍「慰安婦」生活を強いられる。
1945年 解放直前に中国から汽車に乗ってプサンに到着。再び船に乗って故郷のコジェ島へ。
1993年 日本軍「慰安婦」被害者として申告。
2004年 水曜デモに参加し日本政府の謝罪と賠償を要求。日本軍「慰安婦」問題解決のため地域で活動する。
2009年 下半身麻痺と持病で療養病院に入院。
2010年3月11日 死去。


 2010年3月2日

 最後の日本軍「慰安婦」裁判といわれていた海南島裁判の最高裁判決が出されました。
 上告棄却――とても悔しくて残念なことですが、これでわたしたちに残された道は立法解決しかなくなりました。

 2審・東京高裁は09年3月、原告が暴力でPTSD(心的外傷後ストレス障害)などを発症していたと被害事実は認めていましたが、「賠償請求権の時効が成立した」「72年の日中共同声明により裁判で賠償を求めることはできなくなった」として請求を棄却しました。
 ここで重要なのは、裁判で被害事実そのものは認められているということです。
 この問題を認めたがらない人たちはあれこれ理屈をこねて、被害者の存在そのものを認めたがりません。しかし現実はそうではありません。これまでの裁判では、結果は敗訴かもしれませんが、「慰安婦」という制度、その被害の事実は公的に認められているのです。

 もちろん、時効や、日中共同声明や日韓条約などの2国間条約を理由に訴えを退ける司法のやりかたを、認めるわけにはいきません。
 これについて、中国外務省の秦報道官は3月5日、「『中日共同声明』は両国政府の間で結ばれた政治文書である。日本の裁判所による一方的な解釈は無効だ」と述べた上で、「慰安婦の強制連行は第二次世界大戦中に、旧日本軍が中国人民を含む侵略された国々の人々に対して行った大きな犯罪で、人類の歴史上、まれに見る人道主義への犯罪でもあり、被害者の体と心を大きく傷つけた。日本は責任感を持って、できるだけ早くこの問題を適切に処理すべきだ」と強調しました。

 時効や2国間条約が、被害者の苦しみや悲しみを超えるものであるはずがありません。なんとしてでも、謝罪と補償を現実のものとするよう、がんばりましょう!

<2審判決はこちら>


 2010年2月10日


 またしても、韓国挺対協より訃報が届いています。
 このところ報告せねばならないのが訃報ばかりというのは、本当に辛いことです。
 なくなられたハルモニのためにも、そして存命中のハルモニのためにも、なんとしてでも解決を現実のものにしなければなりません。

 イクサンに暮らしておられたイ・ジョムネハルモニが2月10日夜10時ごろに亡くなられました。

 故イ・ジョムネハルモニは、1921年にイクサンで生まれ、貧しい家の事情でインチョンに奉公に出ていたところ、1935年ごろ日本軍人によって連行され日本軍「慰安婦」という苦痛を味わいました。
 中国・シンガポールなどで辛い日々を送っているときにひどい肺病にかかり、1941年ごろやっと帰郷することができました。
 当時の軍人の殴打など慰安所生活による様々な病気で、帰国後も辛い日々を送りながらイクサンで暮らしてきました。

 ハルモニを訪問すると元気に笑う姿を見せてくれていましたが、老いのせいで気力をなくし、今週初め脳出血で倒れました。
 再び起き上がることを切に願っていましたが、昨日の夜に目を閉じられました。

 ハルモニがさみしくないよう、皆さんも冥福をお祈りください。

 ハルモニ安らかにお眠りください。


 2010年2月10日

 2月10日、岡田外相が訪韓し日韓外相会談を行うにあたり、「真実と未来・国辱100年事業共同推進委員会」と韓国挺身隊問題対策協議会が、日韓の正しい過去清算を求めるため、記者会見とソウルの日本大使館への書簡伝達を行いました。
 「日本大使館への書簡伝達」といえば、昨年9月の鳩山首相初訪韓時のことを思い出す方も多いと思います。(詳細はこちら)
 韓国挺対協は鳩山訪韓時にも同じように日本大使館への書簡伝達を行いましたが、この時日本大使館は、職員が誰も出てこず、黒塗りのガラス窓越しで対応するというとても酷い対応に終始しました。
 このことは日本でも広く伝わり、市民・女性・国会議員・地方議員など多くの方々が政府・外務省に抗議しました。今回大使館職員に面会し書簡を伝達できたのは、その抗議の成果です。
 とはいえ、入れるのは二人のみ、写真撮影・録音はお断りとの条件付きです。
 キル・ウォノクハルモニとユン・ミヒャン代表が大使館の中に入り、応接室で職員1人と対面して書簡と声明書を渡しました。
 ハルモニが一言話す時間もあり、受け取った職員はキチンと伝達すると答えたそうです。
 伝達を終えて外にでてきたキル・ウォノクハルモニは、「直接渡すことだけでもすっきりした」と感想を述べていました。

 ハルモニたちの書簡は、私たちの心も打たずにはおれません。また被害生存者87名というのは、私たちに残された時間がどれほど少ないか、思い知らされます。しかも同日夜、イ・ジョムネハルモニが亡くなられています。これで86名……本当に時間とのたたかいです。

 


日本軍「慰安婦」問題の早急な解決を求める
日本軍「慰安婦」被害生存者の公開書簡
 岡田克也 外務大臣 殿
 私たちは、日本による植民地化で日本軍人の性奴隷として、人間としては耐えられないほどの惨たらしい生活を強いられた日本軍「慰安婦」被害の生存者です。私たちは、すでに80歳から90歳中盤の高齢者で、残り時間はそう永くはありません。
 しかし、私たちは最後の一つの希望をあきらめず生きています。それは、幼い時に日本軍に踏みにじられ奪われた名誉と人権を取り戻すことです。それは、日本政府が真実を正しく明らかにし、公式謝罪と法的賠償を実現し、再び私たちのような被害者が生まれないよう再発防止措置をとることです。
 私たちは、今日の岡田外務大臣の韓国訪問と日韓外相会談の開催を、期待と希望を持って注目しています。昨年9月に新しく日本の総理になった鳩山総理大臣が韓国を訪問し、「歴史を直視する」と日韓の過去問題への解決の意志を明らかにしました。これに続く日韓外相会談では、鳩山総理の意志に対する具体的な論議がなされることだろうと信じているためです。
 また今年は韓国が日本によって強制的に主権を奪われてから100年になる年です。歴史的な意味を持つ今年は、日本軍「慰安婦」問題が解決される元年になることを心より願っています。
 私たちは、ここ日本大使館前で1992年から毎週水曜日に、日本軍「慰安婦」問題の正しい解決を求め900回を越えるデモを行ってきました。ちょうど水曜日となった外務大臣の訪韓は、私たちの胸を疼かせます。
 再度、心よりお願いします。
 鳩山連立内閣は、被害者が生きているうちに、一日も早い日本軍「慰安婦」問題を解決するための法律を制定し解決して下さい!そのためにも、岡田外務大臣が積極的に努力してくださることをお願いします!
 それこそが、再びこの地で私たちのような傷と痛みを持った被害者を生まないという、日本政府の平和と正義に向かった約束となることでしょう。
2010年2月10日
韓国の日本軍「慰安婦」被害生存者87人
キル・ウォノク、イ・スンドク、キム・スノク、カン・イルチュル、コン・ジョミョプ、クァク・イェナム、クォン・マルレ、キム・ギョンスン、キム・ギョンエ、キム・ゲファ、キム・グンジャ、キム・ダルソン、キム・ボクトン、キム・ボクトゥク、キム・ボクソン、キム・ボクソン、キム・ブニ、キム・ソニ、キム・ヤンジュ、キム・ヨニ、キム・オスン、キム・オックィ、キム・ウェハン、キム・ヨジ、キム・ユンシム、キム・ジョンブン、キム・ジュソク、キム・ファソン、パク・プニ、パク・スニム、パク・スニ、パク・オンニョン、パク・オクソン、パク・ユニョン、パク・ピルグン、ペ・ボンナム、ぺ・チュニ、ソン・ナミ、シン・サンシム、シム・ダリョン、アン・ジョムスン、ヤン・ジェスン、ウ・ヨンジェ、ユ・ヒナム、ユン・グムネ、ユン・スンマン、イ・グィニョ、イ・ギソン、イ・ギジョン、イ・ドゥスン、イ・マクタル、イ・ボクスン、イ・サンヒ、イ・ソノク、イ・スサン、イ・ヤングン、イ・オクソン、イ・オクソン、イ・ヨンニョ、イ・ヨンス、イ・ジョムネ、イ・ヒョスン、イム・ジョンスン、イム・ジョンジャ、チャン・ジョムドル、チョン・マリア、チョン・ボクス、チョン・ユノン、チン・ファスン、チェ・ガプスン、チェ・グムソン、チェ・ドンネ、チェ・ソンスン、チェ・オギ、ハ・サンスク、ハ・スイム、ハ・ジョミョン、ハム・グィラン、ファン・グムジャ、ファン・グムジュ、ファン・ソンスン、パク・ソウン、パク・チャスン、イ・スダン、ノ・スボク、ソン・シンド、キム・ドゥクソン、パク・ユソン


  2010年1月15日


 またしても韓国挺対協より訃報が届いています。
 中国在住のキム・ウィギョンハルモニです。
 異国に置き去りにされた被害者たちの苦難は生涯続きます。ナヌムの家のハルモニたちのように、故郷に帰ってこれたとしても、中国に残してきた家族と引き離されてしまうのですから。
 最後まで帰国できなかったキム・ウィギョンハルモニの無念さはどれほどだったでしょう。
 これで、やっと、魂となって故郷に帰られることでしょう。ご冥福をお祈りします。

 年末年始にかけて悲しいお知らせが続いています。
 故キム・ウィギョンハルモニの訃報をお伝えします。

 キム・ウィギョンハルモニは、中国武漢に暮らしていましが、この間連絡をしても家族がハルモニとの接触を拒否するなどで会うことができませんでした。
 亡くなったのではないかと実態調査を要請していたところ、おととい女性部からハルモニが亡くなったことが確認されたと連絡がありました。

 故キム・ウィギョンハルモニは1918年ソウル生まれ。1938年に日本軍に強制連行され約7年間中国南京などの「慰安所」で苦痛を経験させられました。
 1945年に韓国への帰国を試みましたが、思いどおりにはいかず、中国で暮らすことになりました。
 ハルモニの姿は、ピョン・ヨンジュ監督の映画『ナヌムの家』に収められています。

 キム・ウィギョンハルモニが恨はこの世に残して安らかに眠られるよう、冥福を祈ります。


  2010年1月2日 


 新年だというのに、私たちは辛いニュースで新年を迎えなければなりません。
 韓国挺対協よりまたしても悲しい便りが届きました。韓国政府に申告していた被害女性234名は、これで88名になりました。問題解決されていない現状のまま、もうこれ以上ハルモニたちの訃報には接したくはありません。
 今年こそは、なんとしてでも日本政府の謝罪と補償を実現させることを、ハルモニの死に誓いたいとおもいます。

 韓国では年末年始ものすごい寒波に覆われる中、2010年が開けました。しかし、希望あふれる知らせの前に悲報をお知らせしなければなりません。
 1月2日の朝、慶北キョンサンに暮らすキム・スナクハルモニが亡くなられました。

 キム・スナクハルモニは、1928年に慶北キョンサンで生まれ、1943年、16歳で就職させてやるとの言葉を聞き中国に連行されました。ハルピン、内モンゴルを経て中国で日本軍性奴隷としての生活を強要されました。
 1945年、キム・スナクハルモニが18歳の時に中国で解放を迎え帰国を試みましたが、1年後の46年にアムノク江を越えて北朝鮮に帰国されました。
 その後、ソウル、クンサン、ヨス、トンドゥチョンなどを転々として暮らしてきました。

 ハルモニは、2001年になって日本軍「慰安婦」被害者として申告し、その後挺対協が行う人権キャンプなどに参加もしました。
 日本での証言集会も行い日本軍「慰安婦」の実相を証言され、テグの挺身隊ハルモニとともに行動する市民の会が行う園芸治療プログラムにも続けて参加し園芸作品展示会も開催しました。

 最近、大腸がんが発見された後、手術を成功裏に終え安心していましたが、長い病苦と老衰に苦しんでいたハルモニは結局病魔に勝てず、恨多い世界から旅立たれました。

 ハルモニが寂しくないよう冥福をお祈りください。


<2009年以降はこちら>