被害者はいつまで声高に叫ばなくてはいけないのか
〜ナヌムの家スタッフ・村山一兵さんをお迎えして〜


 2010年2月14日に堺市にて、堺市議会で意見書可決を求める市民団体の主催で、日本軍「慰安婦」被害者に寄り添っている日本人男性支援者をお呼びしたつどいがありました。韓国「ナヌムの家」のスタッフであり、併設されている日本軍「慰安婦」歴史館の研究員でもある村山一兵さんです。
 「慰安所」がどこにあったのかを地図で指し示し、被害者であるハルモニたちが多く連れて行かれた中国だけでなく、フィリピン・マレーシア・インドネシア・東ティモール・パプアニューギニアなど、非常に広範囲にわたっていることから、被害者たちはどうやっていったのかを考えてほしい、軍による管理下だから「慰安所」を作り、被害者を連れて行くことができたといえるのではないかと訴えられました。
 被害を受けたハルモニたちは名乗りを上げた234人から、87人に、そして一人亡くなられて2月14日時点でもう86人になったことや、朝鮮民主主義人民共和国でも名乗られたハルモニは218人から40名だけしか生存者がいないことを聞くと、時間がないことを改めて実感しました。
 「ナヌムの家」には年間日本人が2000人ほど来ているらしいのですが、ハルモニはそれはそれで喜んではいるのですが、「それでも未だに声高に叫ばなくてはいけないのか」という痛切な思いを聞くと、私たち日本人は何をやっているのかと痛烈に自問自答せざるをえませんでした。
 被害者のお年を思うと、もう数年で解決しなければ、顔向けできないです。
 政権交代のこの機に解決への道筋をつけなければいけないません。なんとしても真の解決を目指しましょう。

【以下は村山さんの講演から、主に後半部分です】


 私は神奈川県川崎市の出身です。このようなことに関わりだした最初のキッカケは、私が高校3年生の時です。友人に在日朝鮮人がいまして、その友人との関わりの中で、朝鮮と日本の関係や歴史を考えるようになりました。友だちになったその彼は朝鮮名で生きてきたわけですけど、彼が日本で暮らしているということ、そしてそこにどういう差別があったのか、そういうことを知る中で「どうして今まで私はそういうことを考えてこなかったのか」と自問自答したのが最初でした。
 2003年から1年間韓国に留学しました。でも「慰安婦」被害者のハルモニたちに出逢うのはまだまだ先なんです。留学した当初は、ナヌムの家に行くことが出来ませんでした。ナヌムの家に行った友だちもいたんですけど、最初は正直言って「行っていいのかなあ」と。なんかすごく肩が重いというか、……難しかったですね。最初にナヌムの家に行ったときも、自分にとってハルモニが遠いというか。帰ってからも周囲にハルモニのことを話すことは出来ませんでした。で、これはおかしいなあと思って。
 実際ナヌムの家を訪問する日本人は多いんですよね。年間2千人を超えてますから、それが10年、20年で考えたら。これまでとてもたくさんの人がナヌムの家を訪れていることになります。
 そういう意味で、ハルモニたちは日本の人たちと出会っている。ハルモニたちは91年からずっと証言し、訴えて続けているのに、なんで今になってもこの問題を解決しようと叫ばなくてはいけないのですか。たくさんの日本人が来ているけど、ハルモニに会ったということだけで終わっている人も多いんじゃないかなあと思ったのです。だから僕がナヌムの家に通おうと思ったのは、これで遠くなっちゃいけないんじゃないのかなあと思ったからなのです。
 今、韓流ブームとかがあって、韓国でもよくそういう方に出会うんですけれど、そういう人の中にはむしろ逆に歴史を遠ざける人もいます。でも両方の目を持つことが必要なんじゃないでしょうか?

 2006年からナヌムの家で働きだしてもうじき4年。被害者の方々の様々な面を知りました。それまで「慰安婦」被害者、ハルモニとひとくくりに思っていたもの……それがひとりひとりのハルモニの笑顔とか、怒っている姿とかに出会っていく中で、ひとりひとりの個性や人生が見えてきて……、そして僕にとってはひとりひとりのハルモニになってくるわけですね。だからそういう部分で、出会ってくるというか、向き合っていく過程が大事なんじゃないかと思うようになりました。
 ハルモニたちも個人の人間ですし、ひとりの女性でもあるし、ひとりのおばあさんでもあるし、ひとりの朝鮮人でもあるわけです。そういう多様な面のあるハルモニたちに、僕自身が出会って、そして僕自身が何をしなければならないかというと、「慰安婦」被害を伝えなきゃならないわけですよ、歴史館で。さらにはハルモニたちの思いとか、また通訳としてその重い言葉をどうやって伝えていこうかなあと悩むわけです。
 私は日本からきて、戦争を知らない世代で、さらには男性で、――性的暴力の問題をどれだけ考えてきたかなあとか思うわけです。そしてナヌムの家で暮らす中で、僕は自分を変えなきゃなあと思い始めるわけです。

 実際ハルモニたちが抱えている性的暴力の被害の傷の深さとか考えると、とても悩まされます。よく被害の証言の中でも……、例えば姜日出ハルモニの証言でもですね、「胸に刺さったくさびを抜いて欲しい」と言うわけですね。そのくさびを抜けるのは誰なのかということを悩みます。そういう被害に向き合うときに、それが自分の中に実感がどれほどあるのかなあと振り返ってみる。そういうのがとても大事だと思います。
 ハルモニ自身も僕のことを知ります。知っていかないと関係性が出来ていかないですから。そして僕もハルモニと関係性を築く中で、僕が誰でどういう人でということをもう一度考え直さざるを得ないわけです。
 朝鮮と日本の歴史の中で、こういう「慰安婦」被害のことがあったというのは、僕も本当は知ってたはずなんですね。だけど「なんでナヌムの家に行くのが恐かったのかなあ」と考えると、遠いと思ってたりとか、僕自身が避けようとしていたところがあったのかなあと思うわけですよね。
 「慰安婦」被害者の方は90年代になって被害を明かしていくわけですけど、でも実際にはそれ以前から見つかっている被害者の方もいらっしゃるわけですよね。70年代に沖縄で見つかったペ・ポンギハルモニという方もいらっしゃいますし、日本の女性だって80年代に城田すず子さんという方が被害を明かしているわけですよ。ですから「慰安婦」被害者の方々は、以前からずっと声を上げてきてくださったと僕は思うのです。なんで「隠されてきた」となってきたのかと考えると、やはり私たちが「知らない」ようにしてきたからなのだと思います。
 今も会場の外で日の丸を振っている人があれこれ言っていますが(その時、会場の外では在特会等などが抗議行動を行っていました)、なんでハルモニが日本に来てああいう声を聞かなくちゃいけないのかなあと思うわけですよね。で、ああゆう人たちが日頃からああゆう事を訴えているかというと、被害者が来たらここぞとばかり出てきて差別的なことをああだこうだというわけですけど、隠したいんですよね。消したいと。一生懸命。このことは聞きたくない、見たくないと。そういうふうに僕には聞こえます。いくら被害者が慰安婦被害の傷みを訴えても、その声はずっと日本社会の中で消されてきた。ですから今でも「慰安婦」といわれて、性的な暴力の被害なのに「慰安だ慰安だ」と言い続けるのかなあということも、男性として考える必要があるんじゃないかなあと思うんですね。
 「慰安所」は軍隊が命令して作ったわけですよ。そして日本の兵隊が、戦争で人を殺して強姦して、そして「慰安所」で性的暴力をしてきた歴史があるわけです。現に私のおじいさんの世代は戦争をしてきたことは事実なんですね。だからそういうことに向き合うのは恐いんだけれど、でもそれを知った上で、アジアの人たちと手を繋いでいくことが必要じゃないかなあと思うわけです。 なぜ暴力をした側が出てこれないんでしょう。被害者の方は、「言いたくない」とか「恥ずかしい」と思いながらも、一生懸命声を上げてきたわけですよ。そういう訴えに対して(在特会等の)心ない差別の声が今でも出されるときに、「なんで暴力をした側は今でも問われないんだろう」と思わざるを得ません。僕は日本の男性だからこそ、性暴力の問題に「おかしいんじゃないか」という声を上げなきゃいけないんじゃないかなあと思います。
 痴漢の被害を受けたりとか、あるいは友人関係とか恋人関係の中で性的な嫌な思いをしたり、傷つけられたり……、僕も含めて他者を傷つけてしまったこともあると思うんです。そういう中で「慰安婦」被害のことを学ぼうとしても、なかなか被害に向き合えないというのは現実にあります。「被害者はお金をもらっていたから」とか「商売として自分で行った」とか主張し、被害の事実を否定する声があります。そういう間違った言葉で「ああそうか」と納得する人があまりにも多すぎます。
 自分の生活の中での、性のあり方とか、男女の関係だったりとか、あるいは朝鮮と日本の関係だったりとか、そういうことにひとつひとつ向き合うことでしか、「慰安婦」被害のことを学ぶとか、加害の歴史を振り返ること、清算するは出来ないんじゃないでしょうか。

 男性自身が「慰安婦問題」をどう取り組むか問われたときに、臆してしまう人が多いんですけれど、やはり男性が問われるところがあると思うんですよね。性的暴力の被害の深さを学ぶ中で、何が奪われて、何が傷つけられたのかということを一生懸命考えるということがすごく大事です。僕自身が男性として生きてきた中で、どう生きてきたんだろうとかですね、そういうなかでフーゾクとかアダルトビデオ・ポルノがたくさん溢れている日本社会の中で、「慰安婦」被害の話を伝えようとしても、結局女性の側に問題があるかのように言われて、……男性としての向き合い方もあると思うんですよね。そういうふうに自分を変えていきながら向き合っていくことも大事なんじゃないかなあと思います。

 今、被害者は高齢になっている方たちが多いです。ですから今こそ日本から声を上げるべきだと思うのですよ。被害者の方たちは20年近く声を上げ続けてきてですね、本も出されて裁判もして、それでも否定されてきて、「もういいたくない」という方たちがあまりにも多い。ハルモニたちの思いを今に繋いでいくのは誰の責任かといったら、被害者の方たちと向き合っていける私たちではないかと思うのですよ。だから日本の中での加害の問題、そして被害の問題も含めて、勇気を持って一歩踏み込んで向き合っていくことから始まるんじゃないか。わたしはナヌムの家の中で被害者と関係を築いて向き合っていきたいと思っていますが、日本の中でも声を上げることが第一歩じゃないかなあと思います。

 最近日本の各市から意見書が出る中で、実際これまで国連であるとか、女性国際戦犯法廷であるとかですね、もしくは各国の決議とか、国際社会からは何度も何度も「この問題に向き合え」と言われてきてるんですね。それに対してどう応えるかというときに、日本の自治体の意見書というのは、日本の声ですから、日本の声を集めていくというのは、政権を変える原動力になるわけです。ハルモニたちもこの事は敏感に受け止めています。意見書が上がったとか、日本の方が来たとか、ハルモニたちのことを伝えていきたいんだということは、ハルモニたちにとって希望になります。彼女たちの限られた時間の中で、亡くなった後にどうなるんだろうとみなさん心配されてるんですね。そういうなかで「これからも私たちはこの問題を考えていくんだよ」「もう二度とこういうことはしないんだ」という希望に繋がっていく中で、市の意見書というのは重さがある。なんとか意見書を可決して欲しい。
 ハルモニたちの限られた時間はあと数年ですよ、ハッキリ言って。ハルモニだけじゃなく、「慰安婦」被害者すべてがそうです。中国や台湾、フィリピンなど、全ての「慰安婦」被害者に時間がありません。この限られた時間の中でなにが出来るんだろうと考えて、なんとか前進させていって欲しい。声を上げていくことから始まるんじゃないかでしょうか?