韋紹蘭(ウェイ・シャオラン)さん証言集会
どんなに辛くとも被害者の声に耳を傾け
私たちの責任で解決を実現しましょう
2010年12月11日、大阪府豊中市で中国桂林から「慰安婦」被害者の韋紹蘭(ウェイ・シャオラン)さんと、その息子さんの羅善学(ルォ・シャンシュエ)さんをお招きして、日本軍「慰安婦」問題関西ネットワークの主催で証言集会が開催されました。
韋紹蘭さんは86歳。そして「慰安所」で身ごもり生まれた羅善学さんは65歳。二人の証言は会場にいる者の胸をも引き裂かんばかりの衝撃でした。
韋紹蘭さんの声はか細く、マイクを通してやっと聞こえるほどでしたが、その証言の辛さと彼女の涙はまるで私たちに突きつけられた刃のようでした。そして母の前には息子の羅善学さんがいたのですが、羅善学さんは母の被害証言に耐えられず、苦しそうに頭を抱えていました。
この光景を私たちは一体どう受け止めればよいのでしょうか?! なぜ母は息子の前でこのような辛い話を証言しなければならないのでしょうか。なぜ息子は、自分の出生の秘密をこのような形で聞かなければならないのでしょうか。そして私たちは彼女を苦しめた日本軍兵士の末裔かもしれず、そのような日本の地で二人はなぜ証言しなければならないのでしょうか?!
本当に、本当に証言する者に苦しさを強いる集会でした。そして私たちは彼女たちの訴えに、どんなに辛かろうとも耳を傾け、声に応えなければなりません。当然のことではありますが、本当に辛いのは私たちではないのですから。
証言はQ&A形式で行われました。証言の前に、お二人の身の上に起こったことを簡単に紹介します。
韋紹蘭さんと羅善学さん
1944年11月、桂林近郊の桂東村に住んでいた韋紹蘭さんは、日本軍が来ると聞いて、夫とともに山に隠れていましたが、2〜3週間経った頃、娘をおぶって洞窟を出たところで日本軍に捕まりました。そして6〜7人の女性たちと馬嶺鎮の慰安所に監禁され、日本兵に強かんされる毎日が3カ月間続きました。
見張り番のすきをみて、子どもを抱えて逃げることができましたが、夫にも「慰安所」のことを話せませんでした。やがて、「慰安所」で身ごもった子どもが生まれると、村人からは「日本鬼子」と噂され、夫からは「売女!」とののしられるようになりました。
韋紹蘭さんと息子の羅善学さんの戦後は、苦難の連続でした。日本兵の子であるために、他の弟妹からも差別され、小学校も途中で退学し、周囲の社会から隔絶された環境で過ごさざるを得ませんでした。「私の人生は台無しだから何を望んでも仕方がないが、日本政府は母には謝ってほしい」と語り、日本政府への嘆願書を書いています。
桂林は日本でも有名な景勝地で、中国大陸の最南部に位置しています。日本軍は戦争末期の1944年の4月から12月にかけて、華北から華南に向けて縦断して侵略する大規模な作戦(大陸打通作戦)を展開し、補給のない日本軍は住民に対して残虐行為を敗戦まで繰り返しました。食料を住民から強奪するのと同じように、女性を拉致・監禁し「慰安婦」としたのです。
2007年4月、東京裁判に提出された証拠資料に、桂林の「慰安所」が載っている事実が日本で発表されました。このことが桂林の新聞にも掲載され、取材を受けた韋紹蘭さんは「慰安婦」被害者として名乗り出たのです。
韋紹蘭さんが名乗り出られた後、それまで蔑んでいた村の人たちも「正義を実現しようとしている勇気のある人」と支持してくれるようになったと、韋紹蘭さんの娘婿が仰っていました。そのことだけが、苦しい証言集会の中での唯一の救いだったように思います。
韋紹蘭(ウェイ・シャオラン)さんの証言
「この歳になるまで胸に重たいものを抱えてきたので、やはり日本政府には謝って欲しいです」
Q 村に日本兵がやってきたのは、どういうふうに知られましたか? A 日本軍は何回もきました。私が捕まったのは、住民は山の洞窟などに隠れて何日か生活しているときでした。村の人たちは日本軍が来たと大声で叫んでいたそうですが、私はその声に気づいていませんでした。子どもを背負ったまま山の中腹から麓に降りていったら、銃剣を持った日本軍に囲まれて、捕らえられてしまいました。 Q 捕まったのはどういうふうにしてですか? A 乳飲み子を背負ったままです。 Q 一緒に捕まった人はいましたか? A 最初はひとりだったのですが、後に軍用トラックに乗せられたとき、私より先に2、3が捕まっていました。私より後にも何人か捕まえられていました。 Q それで連れて行かれたのが、日本軍のトーチカですね。そこではご飯はちゃんと食べることはできましたか? A ご飯とおかずはありました。 Q 赤ちゃんのご飯は? A 乳飲み子ですから、ご飯はまだ食べられません。だから日本軍の手先になっていた中国人女性におかゆにしてもらいました。 Q 「慰安所」はどんなところでしたか? 一日に何人ぐらいの兵隊が? A ひとつの部屋を布で何部屋にも仕切っていました。一日2〜3人。数日後には日本軍の隊長の「専用」とさせられました。 Q そこには女性は何人くらいいましたか? A 仕切られた部屋で生活していますから、全部で何人かはわかりません。 Q 隊長の名前は覚えていますか? A 言葉が通じないですから……名前もわかりません。 Q 毎日どんな思いでしたか? A 死ぬことは考えていませんでした。ひたすら逃げたいと思っていました。しばらくたって見張りが緩んだときに、朝逃げられるか、夜逃げられるか、ひたすら考えていました。 Q どうやって逃げることができましたか? A (泣きながら)「慰安所」のあった小さな裏門から逃げました。まだ夜明け前で、道も分からないので、身を潜めて夜明けを待ちました。ずっと歩いていくと、芝刈りをしているひとりの女性にあえたので、帰る村の方角を訊き、またひたすら歩きました。牛飼いの子どもにも道を訊ねました。なにぶん乳飲み子を抱えてますから、背中の子が泣いて困りました。歩いて、歩いて、歩いていったら、夜も更けてきた。ある農家の明かりがついていたので、そこの男性に事情を話したら、「今行ったらダメだ」と言われました。子どもも調子が悪いし。そこの農家の方にサツマイモなどの雑穀をいただいて、そこで一晩過ごしました。2日目もまた歩いて歩いて、午後に村に着きました。 Q 家に着いたとき、夫はどんなふうに迎えてくれましたか? A 突然帰ったものですから、夫もびっくりしていました。まさか生きているとは思っていなかったようで、命があってよかったと言ってくれました。泣いている子どもをおろしておかゆを作り、湯を沸かして身体を洗いました。衣服も着替えました。 Q それから妊娠していることが分かるんですよね? 夫や周囲の人の態度はどうでしたか? A (再び慟哭しながら)夫は最初誰の子どもか分からなかったみたいです。子どものことが村で噂になり、月日を数えて自分の子どもではないと分かると、段々態度が冷たくなっていきました。普通妊娠すると身体の滋養のため栄養のつくものを用意してくれるのですが、それもなかったんです。 Q 日本にきて一週間くらい経ちますが、どんなお気持ちですか? この会場にも多くの日本人がいますが。 A 以前は日本人を何十年にもわたって憎んでいました。日本人=日本軍と思っていましたから。日本各地で日本軍「慰安婦」問題に関心を持っている人がたくさんいると分かって、感情的には大分変わりました。 Q どうも辛いお話をたくさん聞かせていただいて、本当にありがとうございました。 A この歳になるまで胸に重たいものを抱えてきましたので、やはり日本政府には謝って欲しいです。それなりの詫びを入れていただきたいです。……身体もよくないですから。
羅善学(ルォ・シャンシュエ)さんの証言
「日本軍が母に残酷なことをしたばっかりに……!」
Q 日本に来られて一週間、どんな気持ちで過ごしてこられましたか? A 日本に来て、心ある方にお世話していただいて、本当に感謝しております。日本の政府には若い人たちにしっかりと教育して欲しい。母に行ったことにたいして、しっかりと謝罪し償って欲しいです。 Q ラオさんが日本兵の息子だと知ったのは、幾つくらいの年ですか? A 私が日本兵の息子だと分かったのは、ふたつのことからです。ひとつは父が母をひどく叱っているときです。それを盗み聞きして分かりました。もうひとつは学校です。わたしがカエルをたくさん捕ったとき、周りの子どもたちがやっかみ半分で「日本兵の落とし子」とはやし立てながら去っていったことがありました。とても悔しい思いでした。家に帰ってそのことを母に問いただしたのだけれど、母は何も答えなくて、泣いて「早く大きくなって仕返しをしなさい」というばかりでした。「仕返しをしなさい」と言われたことが深く心に残っています。だけどその頃、日本軍がどういうものか、具体的にイメージがありませんでした。学校で抗日戦争の映画を見せられる中で、日本軍がどういうものか初めて分かりました。 Q お父さんはお母さんを叱っていたということでしたが、ラオさんにはどのように接しておられましたか? A 父は私には冷たかったです。妹や弟たちと比べて食事も劣っていましたし、私の眼の病気もしっかりとは治してくれなかったです。学校へ通うこともそうでした。兄弟でいろいろ区別はされていました。だけれども自分の出生が分かってからは、父に対するくちごたえは極力しなかったです。なぜかといえば、母が泣くからです。ただ今になってひとつ言えることは、たとえ自分の身の上がどうあれ、大きく育ててくださったことについては感謝しています。 Q ありがとうございます。最後に皆さんに何か伝えたいことはありますか? A 日本政府は母だけでなく、自分に対してもしっかりと謝って欲しい。しかるべき詫びの気持ちを表して欲しいと思っています。(司会が一度しめようとしたところを、興奮されて)私がここに来て言っていることは、全て本当です。私が嘘をついているとでもいうのでしょうか? 私が日本軍兵士の息子とであるということを日本政府が認めるまで、私は言い続けます。今でも一部の中国人は私のことを「日本兵の落とし子だ」とバカにします。今でも言われているんです。同じ母親から生まれているというのに、日本軍が母に残酷なことをしたばっかりに……! Q どうもありがとうございました。