私がこの世に生きているのは奇跡

〜追悼 林貞子ハルモニ〜

 2010年11月27日、大阪の日本キリスト教団淡路教会で「大阪市会で『慰安婦』意見書実現!報告集会」が開催されました。これは10月13日に大阪市会(大阪市は市議会のことを市会と呼びます)で日本軍「慰安婦」問題の早期解決に関する意見書が可決されたことを受け、この意見書運動に携わった市民団体(大阪市会で慰安婦「意見書」をもとめる会)が企画したものです。
 この集会に慶尚南道から3人の被害者が来日され、証言されました。
 慶尚南道の市民団体は、地元の地方自治体で「慰安婦」問題の解決を求める決議を多く可決させる一方、地元の特に若い人たちを巻き込んではがき署名を展開しました。はがき署名は20885筆を集約し、私たちが取り組んだ緊急120万人署名などと共に2日前の11月25日に国会に提出しました。
 その二日後、来阪されて証言。その晩には箕面の温泉で静養され、翌日韓国・慶尚南道に帰られました。ご高齢の被害者には過酷なスケジュールであったと思います。

 慶尚南道から来られた被害者は、人前で証言する経験などほとんどない被害者でした。今回ここに載せた林貞子(イム・ヂョンジャ)ハルモニの他、金福徳(キム・ボクトク)ハルモニ、金京愛(キム・ギョンエ)ハルモニの三人が来日されたのですが、林貞子ハルモニの証言は事前に聞き取った文章を代読するという形で、金福徳ハルモニと金京愛ハルモニはほとんど挨拶程度の証言でした。(もちろん、それでいいのです。)
 林貞子ハルモニは89歳、車椅子で移動しています。そのお姿を観ただけでも、私たちにとっては衝撃でした。被害者の証言を、代読という形で行うと知ったとき、会場からはしんどそうなハルモニのお姿を観て「代読でいいのだから被害者は休ませてあげて」という声も上がりました。当然のことです。
 その時奇跡が起こりました。代読する言葉を聞いて、林貞子ハルモニが自分の過去を追体験し、語り出したのです。とてもか細い声で、とても辛そうに。しかし語らずにはおれないという決意が伝わってきて、会場にいる私たちは涙を禁じ得ませんでした。
 私たちは被害者になんと辛いことを強いているのだろう。主催者としても、自問自答し、苦しみました。
 集会は林貞子ハルモニの証言で引き締まり、また慶尚南道の市民団体の取り組みに多くを学ぶことのできた、とても有意義なものでした。

 それからわずか1ヶ月半後、1月13日、林貞子ハルモニは永眠されました。
 「私がこの世に生きているのは奇跡」と仰ったハルモニは、もうこの世のどこにもいません。

 訪日そのものが、被害者自身が強く望んだものだと聞いています。私たちは日本の市民運動としてそれを受け入れることができて良かったと思う一方、やはり被害者に無理をさせてしまったのではないかという自責の念でいっぱいです。
 しかしそれをあれこれ思い悩んでも仕方のないことといえなくもありません。私たちが被害者を弔う方法は、被害者の望む解決を実現するということのほかないのですから。

 このHPでも何らかの集会報告をしなければと思っていましたが、林貞子ハルモニの死を受けて、その証言だけでも紹介します。


 今から林貞子ハルモニが書いてくださった文章を読みます。聞いてください。
 私は林貞子と申します。歳は89歳です。私が連れて行かれたのは18歳のときでした。……
(ハルモニが口を挟んで)18歳ではなく15の時だった(最初の証言の時は18歳と言ったが、どちらかが記憶違いと思われます。)その時私はトンヨンに住んでいたんですけれども、近所の井戸に水を汲みに行きました。その時ある男二人が前に現れ、「工場に就職するとものすごい金がもらえる、一緒に行かないか」と言われました。私は恐くて「行きません」と答えました。しかし二人の男は私の手を引っ張りました。私は恐くて「母に話してから行きます」と言いましたが、「時間がない」と言って、強制的にそばに停めてある車に乗せられました。軍人が使う、中に誰が乗っているかどうか分からないような車でした。車の中には私と同年代の見知らぬ女の子が何人かいました。そうして私は水を入れるためのカメもそのままに連れて行かれました。(代読を聞いてハルモニが再び口を挟みました。)無理矢理トラックに投げ入れられた。トラックは外が見えないようになっていた。何度も蹴られ、殴られた。その時は本当に死んだも同然でした。
 連れて行かれた場所はトンヨン市場の隣の警察署でした。そこには他にも娘たちは何十人もいました。そこで一晩過ごし、翌日に釜山に連れて行かれました。釜山で何十人かが軍人用のトラックに乗せられて、部隊のような所に行きました。そこで約2日間いました。次の日になるとまた十何人かが増えていて、約30人が汽車に乗せられ、何日かが過ぎました。「どこに行くんですか?」とある大人しい軍人に訊いたら、「中国の満州に行く」と言いました。
(ハルモニが口を挟んで)女の子たちがたくさんいました。車両は外から見えないようになっていました。ものすごくお腹が空き、餅をもらって食べていました。本当に物乞いのようでした。
 中国満州に着いて、ある部隊で何ヶ月、また他の部隊で何ヶ月、そのようにしながら何年も苦労して過ごしました。私の華やかな18歳の青春は、このように無惨に、夢が抹殺されてしまいました。……ここまでです。
 
(しかし代読が終わってもハルモニが言葉を続けます。)
 
私がこの世に生きているのは奇跡だと思います。刀を持って軍靴を履いた軍人に、ものすごく殴られました。行かないと拒否してたら、軍靴で脇腹を蹴られました。親の許可を得てくるからと言っても通じませんでした。家には行かせずに、無理矢理軍用トラックに乗せられたのです。「トラックに乗れ」とビンタされました。
 日本の軍人たちを敵のように思っています。親にはそんな話できません。言えなかったです。そしてものすごく苦労して生きてきました。隠れて生きてきたので……。

 
(「慰安所」での話だと思うのですが、)当時2階にいたんですけれども、軍人に2階から1階に投げ落とされました。腕を骨折しました。当時夏だったのですが、腕を骨折していたので、他の娘たちが私の髪を櫛でといてくれたり、世話をしてくれました。この話は他人にはできません。
 ありがとうございます。