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訃報



12月13日、中国湖南省瀏陽市の日本軍性奴隷制被害者、陳美英さんが亡くなられました。
93才でした。
18才の時に村が日本軍の攻撃を受け、逃げる途中で捕まって「慰安婦」にさせられました。 2019年4月7日、中国上海師範大学「慰安婦」問題研究センター湖南調査グループが調査・研究を通じて日本軍性奴隷制度の被害者だったことを確認しました。
中国の生存「慰安婦」被害者は16人になりました。










訃報



上海師範大学『慰安婦』問題研究センターの微信(ウェイ・シン)によれば、 去る8月21日に中国の日本軍「慰安婦」被害者、楊桂蘭(ヤン・クイラン)さんがお亡くなりになったということです。
99才でした。

楊桂蘭さんは1920年湖北省通常県に生まれ、湖南省岳陽県に12才で嫁ぎました。
実家に帰る途中で日本軍に拉致され、付近の祠堂(お堂)に監禁されました。
実家や親戚によって助け出されましたが、十数日の間被害を受け続けました。 2019年4月30日に上海師範大学「慰安婦」問題研究センターが被害を受けた幸存者であることを確認しました。

中国大陸で記録された日本軍『慰安婦』制度で被害を受けた幸存者は17人だけになってしまいました。

http://www.chinanews.com/gn/2019/08-24/8936559.shtml










訃報



8月19日、オーストラリア在住の日本軍性奴隷被害者ジャン・ラフ・オハーンさん訃報の知らせに世界各地で悲しみが広がりました。
96歳でした。
1923年オランダ植民地下にあったインドネシアで生まれ、日本軍占領下で過酷な性奴隷生活を強いられたオハーンさんは、1991年の金学順さんの名のり出を契機に自らも名のり出を決意しました。 日本をはじめ、世界各地を回って日本軍性奴隷制問題解決のために声をあげ続けました。
心よりご冥福をお祈りいたします。



《追悼辞》

日本軍性奴隷制被害者 ジャン・ラフ・オハーンさん

ジャン・ラフ・オハーンさんが落命されたという知らせを聞いて、胸が潰(つぶ)れるような思いです。
韓国「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」は、ジャン・ラフ・オハーンさんの遺家族、そしてジャン・ラフ・オハーンと意志を共にした豪州市民たちに深い哀悼の意を表し、大きな悲しみを共に分かち合います。

ジャン・ラフ・オハーンさんは日本軍性奴隷制被害の苦痛に打ち勝った生存者として1992年、自身の被害事実を公開証言されました。
無反応の日本大使館前で堂々と謝罪を要求する韓国被害者たちを見て勇気を貰(もら)ったと、そして二度と同じ歴史が繰り返されないために立ち上がると決心したといいます。

それ以降ジャン・ラフ・オハーンさんは、1992年12月、「東京国際公聴会」での証言、2000年東京で開かれた「日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷」で証言、そして2007年に米国下院決議が採択されるときに直接米国聴聞会で証言し、日本軍「慰安婦」問題の真実を欧州と米国社会を始めとする国際社会に広く知らせる重要な役割をしました。

ジャン・ラフ・オハーンさんは、日本軍性奴隷制問題の正義ある解決のために堂々と闘い、さらに日本軍性奴隷制問題が東アジアに局限されたことでなく、人類普遍の人権問題であることを国際社会が認識していく大きな役割を果たされました。

日本政府に犯罪認定と公式謝罪、法的賠償を要求して闘われたジャン・ラフ・オハーンさん、故人が受けた大きな痛みを記憶します。すっくと立って堂々と立ち向かって闘った貴女の勇気を記憶し続けます。貴女が逝かれた処は戦争が無い、性暴力も無い処であることを願い、逝かれた貴女の願いである加害者の反省が一日も早くなされるよう、懸命に活動します。これ以上、戦時性暴力が起きないよう世界の平和が広がるよう、もっと熱心に努力します。

ジャン・ラフ・オハーンさんの冥福を祈ります。




2019年 8月 20日
日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯










訃報



この間危篤状態にあったソウルに住むハルモニが4日午前、とうとうお亡くなりにな りました。
家族の意思により、すべてのことは非公開です。
ハルモニが辛く苦しかった記憶をすべて忘れ、安らかに眠られますよう、ご冥福を心よりお祈りします。

2019年に入ってソウルで3名、大邱でおひとり、全南でおひとり、合わせて5名のハル モニがお亡くなりになりました。
現在生存しておられる方もみなさん健康状態が悪く、とても心配です。

これで韓国政府に登録された「日本軍性奴隷制被害者」240名のうち、生存者は20人となりました。

=正義記憶財団より=







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6月2日の夜、中国浙江省金華市で、日本軍性奴隷制被害者、徐阿英さんが亡くなられました。
92才でした。

16才の時に集落に侵略してきた日本軍に捕まり無理矢理日本軍の陣地に拉致され性奴隷被害を受けました。
1ケ月後、ほかの16人の被害女性とともに、この地に展開していた革命武装勢力によって助け出されました。
しかし一週間後、買い物に出た際に不運にも再び日本軍に捕まり、金華中山埠頭の日本軍の拠点、及び雅堂街の「慰安所」で、3年間、性奴隷被害をうけました。

日本軍から受けた屈辱的な記憶は深刻であり、身体と心に大きな傷を受けました。
上海師範大学中国「慰安婦」問題研究センターのボランティアら事情を知る人々は、徐阿英さんと深く接触する度に悲しみがこみあげ、辛い思いをしたといいます。
毎年、上海の中高生たちが研究センターを通じて徐阿英さんに新年のカードと手紙を贈っていました。

6月4日のお葬式には研究センターからも参列し、お花を贈ったそうです。
亡くなられた徐阿英さんに深く哀悼の意を表し、どうか安らかに眠られるよう、心からお祈りいたします。

(上海師範大学中国「慰安婦」問題研究センターのウエイボーより)


※中国の生存被害女性は17人となりました。









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皆さま


5月5日、中国桂林に暮らしておられた韋紹蘭(ウェイ・ シャオラン)さんが逝去さ れました。
転んでけがをされて入院中で、意識も混濁した状態でしたがとうとうお亡くなりにな られました。
99歳でした。
韋紹蘭さんは1944年24歳の時に日本軍兵士によって負ぶっていた娘とともに連行され ました。
6,7人の女性たちとともに3か月にわたって慰安所に監禁され、日本軍の性奴隷とし ての生活を強いられました。
監視の目をくぐって脱出、家に帰って日本兵の子を妊娠していることがわかり、 息子を産みました。
その後親子は夫や親族、周りの人々から「日本鬼子」などと言われ、冷たい視線を浴 びながら生きていかざるを得ませんでした。
2010年12月来日、議会が主催する公聴会で証言し、謝罪と賠償を求めて請願書を提出 しました。
その折、関西にも来られ大阪・豊中と京都で開催された証言集会でお話を聴くことが できました。
日本政府に正義を求めるという意志を明確に示されていましたが、最後までその答え を聴くことはありませんでした。

苦痛に満ちた人生でしたが、時には明るい笑顔も見せてくださった韋紹蘭さん、どうぞ安らかにお眠りください。

ご冥福をお祈りします。


※韋紹蘭さんの証言は2008年、韓国で制作されたドキュメンタリー映画「終わらない 戦争」および、2014年中国で制作された「三十二」で観ることができます。





韋紹蘭さん(中央)と息子さん(左)






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皆さま


3月31日、韓国大邱(テグ)で暮らしておられた日本軍性奴隷被害者がお亡くなりになりました。
ハルモニは2016年に被害者登録をされ、現在97歳でした。
ご遺族の意向により、被害者の情報と葬儀に関しては非公開とされています。
ハルモニのご冥福を心よりお祈りいたします。

韓国の日本軍性奴隷被害登録者240名のうち、生存者は21名となりました。







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皆さま


3月2日午前11時、丹陽に暮らしたクァク・イェナムハルモニが亡くなられました。
生存者は22名になりました。

クァク・イェナムハルモニは1925年、全羅南道丹陽(タミャン)で生まれました。
2男4女の3女でした。日本軍の「処女供出」を避けるため結婚しましたが、結婚生活 2〜3カ月後に義妹が処女供出に行かなくてはならなくなると、嫁ぎ先はクァク・イェ ナムハルモニに代わりに行くよう求めました。実家に逃げましたが、数日後に巡査に より暴力的に連行されました。1944年の春、朝に村の女性たち5人と裏山に野草を採 りに行ったときに起こった出来事でした。同じ村の女性以外に6〜7人の女性とともに 汽車に乗り中国に連れて行かれました。翌年、クァク・イェナムハルモニの父親は精 神を患い亡くなりました。

クァク・イェナムハルモニは1年半の間、残酷な日本軍性奴隷被害を受けました。慰 安所は2階建てで24部屋あり、日本人女性と中国人女性もいました。女性たちはみな 着物を着せられました。外出も許されませんでした。クァク・イェナムハルモニは慰 安所の外に出たことがほとんどなかったと証言しました。一人での外出は許されず、 管理人の同意を得て2〜3人一緒なら外に出ることができました。

解放後、クァク・イェナムハルモニは朝鮮に戻りたくても戻れず、長い間さまようほ かありませんでした。あちこちの家をまわり物乞いしながら中国安徽省の宿州に流れ 着き、そこで暮らすようになりました。

クァク・イェナムハルモニは中国で暮らしても朝鮮の国籍を変えませんでした。その 後、MBCの番組「!」と韓国挺身隊研究所の助けで、2004年に国籍を回復して帰郷 し、甥(末妹の息子)の保護の下暮らしてきました。

60年ぶりに戻ってきた韓国で兄弟姉妹に再開しましたが、両親はすでに亡くなった後 でした。クァク・イェナムハルモニの両親は亡くなる瞬間まで、失った娘を忘れな かったそうです。帰るあてもなく中国にいる間も故国の国籍を捨てず辛い人生を耐え てこられたハルモニですが、結局日本政府の謝罪の一言さえ聞くことができないまま 亡くなられました。
しかしながら辛い人生を一生懸命に生きぬいたハルモニでした。

故人のご冥福をお祈 りいたします。

日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯









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皆さま


日本軍「慰安婦」被害者として早くから証言活動を行い、世界各国を回って性暴力の 根絶や女性の人権、平和を訴え続けてきた金福童ハルモニが1月28日午後10:41逝去さ れました。

金福童ハルモニは、1940年満14歳の時に戦場に連れて行かれ、日本軍性奴隷としての壮絶 な体験を強いられました。
戦場を生き抜き、1947年にようやく帰郷を果たしました。
しかし、その後も過去の記憶に苦しみながら過酷な人生を送られました。
1992年3月、元「慰安婦」であったことを明らかにしてからは世界各地を回って日本 軍の性暴力の実態について証言、日本政府の心からの謝罪と賠償を求めてきました。
さらに、今も世界各地の武力紛争下で蔓延する性暴力問題を解決するため「ナビ基 金」を設立、支援活動を展開してこられました。
ベトナム戦争で韓国軍によって性暴力被害を負った女性と子どもたちに対しても、 「ナビ基金」を通して支援し、自ら謝罪もしました。
また、日本において朝鮮学校の子どもたちが差別的な制度によって学ぶ権利を奪われ ていることに胸を痛め、奨学金支援などを重ね、「金福童の希望」をたちあげまし た。
南北統一を願い、戦争のない平和な社会を誰よりも強く願ったハルモニですが、その 日を待つことなく旅立たれました。
ハルモニが切り拓いた道を私たちは多くの人々とともに歩んでいきます。

ハルモニの葬儀は「女性人権運動家・金福童市民葬」として1月29日よりセブランス 病院葬礼式場にておこなわれます。 2
月1日は出棺と日本大使館前での路祭(告別式)を行った後、納骨式は天安「望郷の 丘」にて執り行われます。


=略歴=

1926年 慶尚南道梁山(ヤンサン)で出生
1940年 満14歳で日本軍「慰安婦」として連行。広東、香港、マレーシア、インドネ シア、 シンガポールなど日本軍の侵略経路に従い移動しながら性奴隷とされた。
1945年 シンガポールで日本軍第16軍の第10陸軍病院で看護士とされた末、米軍捕虜 収容所に収監。
1947年 帰郷
1992年 3月 日本軍「慰安婦」被害を公開、活動開始。
1992年 8月 第1回日本軍「慰安婦」問題解決のためのアジア連帯会議で証言 1993年 6月 ウィーン世界人権会議で証言。
2000年12月 日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷に原告として参加、実情を文書で証言。
2010年 7月 米カリフォルニア州グレンデール市議会から「勇敢な女性賞」受 賞。
2011年 3月 日本の東日本大震災の被害者を支援する募金を提案、第1号寄付。
2012年 3月 挺対協と共に戦時性暴力被害者を支援する「ナビ基金」を設立 2012年〜16年 国連人権理事会、米国、英国、ドイツ、ノルウェー、日本など毎年、 数回にわたって海外キャンペーンに出掛け、戦争のない世界、戦時性暴力被害者を生 まない世界のため活動。
2013年 7月 海外初の「平和の碑」(平和の少女像)の米グレンデール市除幕式 に参加。
2014年 3月 韓国軍の性暴力に遭ったベトナム人被害者に謝罪と支援のメッセージ を映像で送る。
2015年 5月 国境なき記者団、AFPが「自由のために戦う100人の英雄」に選定。 2015年 6月 戦争/武力紛争地域の子どもたちに奨学金として5千万ウォンをナビ 基金に寄付。
2015年12月 大韓民国国家人権委員会から2015大韓民国人権賞国民勲章受章。
2017年 7月 日本の朝鮮高校の生徒2名に金福童奨学金を授与。
2017年 8月 死後に遺る全財産の寄付を約定。
2017年 9月 ソウル特別市名誉の殿堂に選定。
2017年11月 韓国浦項地震の被害者のため1000万ウォンを寄付。
2017年11月 正義記憶財団から女性人権賞を受賞。
2017年11月 女性人権賞の賞金5000万ウォンを武力紛争地域の性暴力被害者の支 援と活動のために「金福童平和賞」を制定、正義記憶財団に寄付(第1回受賞者:ウガ ンダの内戦時性暴力サバイバーで人権運動家のアカン・シルビア) 2017年12月 国際女性人権団体である<Women's Initiatives for Gender Justice>、「性平等遺産の壁」に金福童ハルモニと挺対協を選定。
2018年 6月 日本の東京で一般社団法人希望のたね基金主催の集会に参加、発言 。在日朝鮮学校の生徒たちに金福童奨学金を授与
2018年 9月 日本の大阪に来られ、台風で被害を受けた朝鮮学校をお見舞いに訪れる。
2018年12月10日 「金福童の希望」名誉会長に就任
2018年11月22日 在日朝鮮学校支援のため5000万ウォンを「金福童の希望」に寄付
2019年 1月 正しい義人賞受賞、賞金500万ウォンを在日朝鮮学校のため「金福童 の希望」に寄付

日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯









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皆さま


1月28日午前7時30分、ソウルに暮らしていたリハルモニが亡くなられました。

ハルモニは1925年に生まれました。
17歳になった1942年ごろ職場の紡績工場からの帰り道で軍用トラックから降りてきた 軍人に同僚2人とともに拉致されました。
トラックにはすでに数人の女性が乗っており、別のトラックから降りた他の女性15− 6人ほどと一緒に強制的に船に乗せられ、下関に連行されました。
下関から再び満州へ連行され、日本軍性奴隷被害を受けました。
ある日、突然日本兵たちが来ないことで解放されたことを知りましたが、一銭ももた ず朝鮮に帰る方法を教えてくれる人はいませんでした。
帰国方法を探しているうちに港に行けば朝鮮に行く船があるという話を聞き、仲間2 人と港に行って朝鮮人船主に事情を話し何とか密航船である塩を運ぶ船に乗せてもら い帰国しました。

ハルモニは罪責の念と被害意識で生涯苦しみました。
長い間、苦しみから逃れられ ず、常に暗い表情をしていました。
訪問するたび、ハルモニの顔に映る苦しみと寂しさを見て、活動家も胸を痛めまし た。
それでも、活動家たちと会うと喜んでくださり、別れた後にも家にちゃんと着いたの かと確認の電話までくれました。

2018年末から体調を崩され、最近になって悪化し、苦しみを耐えてこられた末、今日 の午前に亡くなられました。

ハルモニ、辛く苦しい記憶、寂しい記憶、すべてを忘れ、安らかにお眠りください。 ハルモニの冥福をお祈りします。

ハルモニと遺族の意思により葬儀は非公開で執り行われます。

日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯






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