軍隊は女性を守らない
沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力

渡辺美奈さん講演会

 2014年3月16日、大阪PLP会館において、日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク主催の集会「軍隊は女性を守らない〜沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力」が開催されました。
 この集会は6月21日、22日に大正区コミュニティセンターで関西沖縄文庫と日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワークの共催で開催される同じタイトルのパネル展(以下「沖縄展」)のプレイベントとして開かれたものです。
 講師としてお招きした渡辺美奈さんは、東京早稲田にあるアクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の事務局長であり、私たちも参加している日本軍「慰安婦」問題解決全国行動の共同代表であり、日本軍「慰安婦」問題の解決をめざす運動を日夜牽引しておられる方です。今回は、2012年6月にこの「沖縄展」を沖縄の女性たちとともに協力して製作する過程において得たものを共有したくて、「日本」側の中心として働いた渡辺さんにご講演いただきました。
 渡辺さんには展示の内容そのものの紹介や、そこに至る議論など、多岐にわたってお話ししていただきましたが、ここではパネル展の中味そのものにはふれず、その製作過程において明らかになった沖縄の「慰安婦」問題や、沖縄と「日本」の関係性などについて取り上げたいと思います。

 ■なぜ「沖縄展」を開催したのか?
 沖縄は最も早く慰安所の調査をした地域でした。川田文子さんが裴奉奇(ぺ・ポンギ)さんの被害を聞き取って本にしていましたし、沖縄の女性たちが慰安所マップを作成し、1992年にはすでに130カ所以上もの慰安所があることを明らかにしていました。
 姜徳景
(カン・ドッキョン)ハルモニが始めて韓国の挺対協事務所で証言をされたとき、たまたま高里鈴代さんたちがその場に居合わせていて、とても衝撃を受けたということもあり、女性たちの間で「慰安婦」問題に対する関心が拡がっていったそうです。
 そして1995年の国連「第4回世界女性会議」と併せて開催されたNGOフォーラムでは、日常の女性に対する暴力と戦時下での女性に対する暴力がテーマとして設定されたとき、沖縄の女性たちは「沖縄の米軍による性暴力は、日常でも戦時下でもない、外国軍の長期駐留下だ」と問題提起しました。そしてその会議が開かれていたまさにそのとき、1995年の少女暴行事件がおこったのです。
 沖縄にとって、日本軍「慰安婦」問題とは、戦争責任の問題としてだけでなく、軍隊による性暴力の問題と切っても切り離せない現在進行形の問題として提起され続けてきました。そのことを伝える展示を「日本」でしなければと思っていましたが、沖縄の女性たちも目の前の闘いに忙しいので、なかなかタイミングが難しい。けれど、沖縄の施政権が日本に「復帰」または「移行」40年を機に、wamと「沖縄戦と日本軍『慰安婦』展実行委員会」の協力でパネル展を実現させたのです。
 このパネルセットは沖縄とwamでそれぞれ1セットずつ持っています。

 ■加害であるということ、被害であるということ
 加害者の証言を集めるのは大変だということは想像に難くありませんが、沖縄戦では生き残った兵士が少ないので、とりわけ困難だったそうです。そもそも戦争体験者であれば事実を知っているにもかかわらず、証言をしてくれる人はなかなかいません。ましてや、被害者の立場を理解して語ることは、とても難しいことです。
 パネル展のために証言をしていただいた元兵士は、「慰安婦」の置かれた状況や自分の関わりを語ったもので、証言としては意味のあるものでしたが、それでも被害者たちを「本当に明るい娘たちだった」と語るなど、性暴力被害者の置かれた状況を十分には自覚されていなかったそうです。
 別の国のケースの加害証言では、「慰安婦」被害者にたいして「ありがとう」という言葉を用いる方もいたそうです。
 元日本軍兵士としては慰安所で金を払っていたこともあり、それが「商行為」だったという自覚でいるのでしょう。(もちろんそのことが日本軍性奴隷制度の被害者であったという事実を否定する根拠にはなりません。)また加害証言をすることが「死んだ戦友を冒涜し傷つける行為」だという意識が、どうしてもあります。そんな意識を乗り越えて証言を求めることは、とても大変なことです。

 また「沖縄展」に関しては、新たに被害者の証言を集めたいということが、渡辺さんの意識の中にあったそうです。凄惨な沖縄戦の下で140カ所以上もの慰安所があった沖縄には、裴奉奇さんのような方だけでなく、沖縄出身の被害者も多数存在したはずで、現在まだご存命であることは想像に難くありません。そんな状況の中で、名乗り出られなくても証言の聞き取りができないかと。しかしコミュニティの人間関係が密な沖縄では、それはとても難しいことだったそうです。
 被害者として、裴奉奇さんと上原栄子さんのパネルがあります。おふたりについても、wamのこれまでのパネルと同様、被害体験だけでなく、そこに至ったいきさつや、戦後の体験について、人生が伝わる記述を目指したそうです。
 しかし本来ならたくさんの被害者がいるはずです。
 沖縄では被害者の目撃証言は多く、市町村史誌にも丁寧にそのことは記述されています。
 私たちは「沖縄展」を観るとき、日本で名乗り出られることの困難さをかみしめ、二人の被害者の背後にいるたくさんの「慰安婦」被害者を想起したいと思います。

 ■強かんが日常にある沖縄
 「軍隊は女性を守らない」というのはとてもいいタイトルだと思うのですが、実はこれは「日本」向けのタイトルなのだそうです。
 沖縄では「軍隊は女性を守らない」だけでなく、住民も守らないのですから。これは沖縄では使われなかったタイトルでした。

 今回のパネル展に際して製作者側がこだわったのが「沈黙の声―米軍の性暴力に抗して」という、長大なパネルです。これには米兵による性暴力の膨大な事例が載っています。こだわった内容の一つが、米軍基地に反対し日米地位協定の不平等性を問う大きな抗議運動のきっかけとなった、95年の少女暴行事件までに、どれだけの被害があったかを伝えること、そして95年の事件は象徴ではなく、多くの事件の一つとして描くことでした。そして、一つひとつの被害を一人称で表記するということでした。被害を受けた女性たちは、今も生きていて、沖縄で性暴力事件を受けるたびに思い出していることを想起してほしいといいます。
 私たちの目に見える性暴力事件というのは本当に氷山の一角です。名乗り出られる方や事件化されることは本当に少ないのです。

 6月23日がwamでの展示スタートでしたから、3〜5月に準備作業が進められました。ところがこの時期はトラウマを呼び起こす沖縄戦のさなかだった時期でもあり、展示に証言を掲載する許可を得るのが大変だったそうです。過去の経緯からみてこの人なら大丈夫から証言の許可をもらえるだろうと思っていたのに断られたことも、少なくなかったそうです。
 傷は、癒えたように見えても、よみがえってくるのです。
 オスプレイの音を聞いただけでも過去のことがよみがえってきて話ができなくなる。柔らかい物を踏んでしまっただけで、過去に多くの屍体を踏みつけながら逃げまどった過去の記憶がよみがえってきて、話せなくなる。
 止むことのない米軍の性暴力事件に何度も心を傷つけられ、稲嶺知事(当時)に手紙を送り、性暴力被害の事実を何度も証言してきた富田さん(仮名)にも協力をお願いしましたが今回は難しかったそうです。実際に名乗り出て、抗議の声を上げている人でさえ、過去がよみがえり、何度も傷つき、何も語れなくなるのです。
(この手紙に対し、町村外相が「軍隊があるから平和が保たれたという一面が抜け落ちている」とコメントしたためニュースとなり、記憶に残っている方も多いかと思います。)
 語ることができない人、語れなくなる人が大勢いると言うことを知って、沖縄の一つひとつの性暴力事件が今でも日常なのだと思い知らされました。それはとりもなおさず、日本軍「慰安婦」問題も今なお日常であるということでもあります。

 ■「日本」側であるということ
 渡辺さんはとても言葉にこだわる方ですが、集会の最初に説明した言葉が、この「日本」という言葉でした。沖縄の女性たちと協同でパネル製作を進める中で、沖縄側でない自分たちをなんと規定するべきか悩んだそうです。
 沖縄戦だけでなく、歴史上現在にいたるまで「日本」と沖縄の関係は対等ではありません。国家の線引きとしては沖縄県であり、施政権も日本国にあるのですが、現在も米軍基地を押しつけ、植民地主義が継続しているという側面が厳然としてあります。

 沖縄の女性たちと議論する中で、「日本語でなんていうんだっけ?」という言葉を何度も聞き、渡辺さんは自分の立ち位置を集会では「日本」という言葉を用いました。もちろんこれは沖縄県も含む「日本国」という意味とは、真反対の言葉です。「本土」というのは違うし、「ヤマト」という言葉を自分が使うには違和感があるとのことで、「日本」という言葉を用いました。そこには様々な複雑な思いを感じ取ることができました。
 そういう言葉の問題は、これだけではありません。講演の中でやはり渡辺さんが説明した「集団自決」(=強制集団死)という言葉、あるいは「復帰」(=施政権返還/移行)という言葉、それぞれの言葉に状況を的確に表すことのできない不自然さと、言い換えだけでは終わらせることのできない複雑さがあります。それは、私たちが主体的に関わっている「慰安婦」(=日本軍性奴隷)という言葉でももちろん同じことです。
 どの言葉を用いるかと言うだけではなく、その言葉の本質は何か、その意識をどう共有化できるかを議論することこそ重要なのだと感じました。

 ちなみに「沖縄における米軍の駐留と日本の責任」というパネルは、沖縄にはなくwamのセットにだけ存在します。これは「日本」側でパネル展を実施する際に、なぜこのような状態が続いているのか、その日本の責任を伝えるために後になって製作したしたとのことでした。
 昭和天皇が1947年5月に「沖縄の軍事占領を(25年から50年)継続すること」を米政府に伝えたこと、「復帰」後も米軍基地が存続し日本政府は沖縄住民の平和への意志を踏みにじり続けていることを、そのパネルで伝えています。

 私たちも渡辺さんのお話を聞いて、自分の立ち位置が「日本」側であるという責任を痛感しました。
 6月21日、22日に、私たち日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワークは、関西沖縄文庫と共催で「沖縄展」を開催します。私たちも「沖縄展」を開催する中で、「日本」側であるという立ち位置の意味を考え、加害と被害の持つ問題の根深さを提起していきたいと思います。

(本チラシはパネル展の内容をもう少し詰めてから作成する予定です。もうしばらくお待ち下さい。)