一日も早く、被害者たちが「水曜デモ」をしなくてもいいように
いま、私たちががんばる!

〜 韓国水曜デモを主管する旅 2013年9月11日 〜

 9月11日、私たち関西ネットは、被害者とともに日本政府に解決を迫るために、ソウルの1091回目の「水曜デモ」に参加して来ました。その日はあいにく、朝から雨降りの一日でした。しかし、「水曜デモ」が行われた1時間の間は、なんと、雨があがっていたのです。84歳の吉元玉ハルモニが、日本大使館に向かって、座られました。少女像「平和の碑」を取り囲むように、300名もの市民が集まり、多くの人がハルモニに挨拶をしていました。過酷な「慰安婦」制度の被害者のハルモニが勇気を持って立ちあがられ、このようなことが二度と繰り返されないようにと闘い続けておられることに対し、多くの人々が暖かい尊敬の念を持っていることがよく伺えました。いつも、一緒に参加される金福童ハルモニは、86歳というご高齢にもかかわらず、この日は、国連でのアピール活動のために、スイスのジュネーブに行かれていました。
 「水曜デモ」は、関西ネットのメンバーの進行で進められました。大阪でと同様に、「水曜デモ」の歌で開始です。韓国語でも歌いました。韓国挺身隊問題対策協議会からこの間の経過報告が行われ、次は、「岩のように(パウィチョロン)」を参加者みんなが歌い、ここでお馴染みの水曜ダンサーズが踊りました。そして、この「水曜デモ」のために、この間の大阪での闘いを「未来のドアを叩き続けよう」という短い寸劇に創りあげ、演じました。ハルモニも、笑顔で観てくださいました。慣れない韓国語でしたが、みんな精一杯せりふを叫びました。その様子は何紙もの韓国の新聞で報じられたので、きっとうまく伝わったものと信じています。ソウルの「水曜デモ」の参加者は、韓国の国内だけではなく、今や世界中から来ています。それだけ、日本軍「慰安婦」問題の解決を願う声は国際社会に広がっていると言えます。この日も、韓国の国会議員や、アメリカや日本の神奈川県から参加したグループがアピールを行いました。私たちも、
    「日本政府は真実を明らかにし、被害者への公式謝罪と賠償を直ちに行え」
    「私たちは、戦争をする国に、二度となりたくない」
    「負の歴史に真摯に向き合う国にこそ明るい未来がある」
    「私たちは女性を支配し、利用することを断じて許さない」
    「日本大使館のみなさん、あなた方は、毎日、平和の碑の少女に見つめられていて、恥ずかしくないのですか」
と訴えて、1091回目の「水曜デモ」を終えました。
 一日も早く、被害者たちが「水曜デモ」をしなくてもいいように、私たちががんばらなくてはいけないと、心に刻んで来ました。
日本大使館に向かってシュプレヒコール! 寸劇に登場した金福童ハルモニと吉元玉ハルモニ
 現在、韓国で生存されている被害者は、名乗り出られた278名の内、56名です。「水曜デモ」に参加できるくらいお元気なハルモニはほんの数名です。
 私たちは「ナヌムの家」と「ウリチブ」に、高齢になられて、支援を受けながら暮らされているハルモニたちをお訪ねしました。解決の知らせをなかなか届けることができず、申し訳ない気持ちでいっぱいの私たちを、ハルモニたちはとても優しく迎えてくださいました。そして、「早く解決しよう」と、力強く手を握ってくださいました。一日も早くいい知らせを届けることができるよう、ハルモニたちと会って、その決意を新たにしました。
 その他にも、私たちは、昨年5月に開館された「戦争と女性の人権博物館」を見学しました。ここでは、録画されたたくさんの被害者たちの声を聴くことができます。「慰安婦」問題を語り継ぎ、今も世界の各地で続いている戦時下での女性への暴力をなくしたいと、平和を願うハルモニたちの思いが込められた博物館です。みなさんも、ソウルに行かれたら、ぜひ訪問してください。
 また、ソウルから南へ約3時間の群山も訪ねました。朝鮮を植民地支配していた時代に、日本は朝鮮の人々から土地を奪い、大量のお米を奪いました。そのお米を日本へ運び出すために作られた港や、日本人が住んでいた家屋、お寺、遊郭などの建物が、あちこちに残っていました。日本が戦争をしていた時代は、そんなに昔ではないと思い知らされました。現在の群山には、駐韓米軍基地があり、パイロットの養成を行っているそうです。多い日には、米軍のジェット機が80機も飛び立つそうですが、ちょうど、私たちが基地の近くにいた時も、数機飛び立ちました。それは、大阪では聞いたこともないような、空気を切り裂くような、身体に突き刺さる鋭い大騒音でした。基地の近くには、米軍兵士が買春目的で訪れる「基地村」という歓楽街がありました。「基地村」は、駐留する米軍のために、1950年代に韓国政府が作ったものです。もともと朝鮮には公娼制度もありませんでしたが、植民地化を進めるため、日本が1904年に公娼制度を持ち込んだのです。現在、「基地村」で働いているのは、ほとんどがフィリピンなどの外国から来た女性たちだそうです。群山の街中で、2000年と2002年に、性売買被害女性たちが監禁されていて、逃げることができず大勢が焼死した建物跡も訪ねました。当然のことながら、韓国でも米軍や性暴力に対する闘いが行われており、私たちは沖縄のことを思いました。また、「風俗業っていうものは必要だ」「沖縄の米軍の司令官に『もっと風俗業を活用してほしい』『そういう所を活用してもらわないと、海兵隊の猛者の性的エネルギーをきちんとコントロールできない』と言った」と、恥ずかしげもなく語った橋下市長を思い出しました。戦争が行われる限り、軍隊がある限り、どこの国でも、だれでも安心して暮らせません。女性への性暴力も、グローバル化して繰り返されます。そのことも、また確信した旅でした。

 短い韓国訪問でしたが、「慰安婦」問題解決を一日も早く勝ち取ることと平和への決意を、一層強くしました。これからも、力を合わせて、がんばりましょう。
(K)