8月14日は日本軍「慰安婦」メモリアル・デーです。
 昨年2012年12月、台北で開催された、第11回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議で、8月14日をメモリアル・デーと定めて、解決に向けたキャンペーン活動を行うことが世界中で合意されました。8月14日とは言うまでもなく、22年前の1991年に金学順さんが名乗り出られた日です。この日を契機に、韓国だけではなく、日本軍が支配したあらゆる国々から被害者が名乗りを上げ、日本政府に謝罪と賠償を求めたのです。その拡がりは日本軍「慰安婦」問題に留まらず、世界中にいる戦時性暴力被害者に勇気と希望を与え、戦時性暴力が犯罪であることが世界中での共通認識となっています。
 世界中で女性の人権問題の象徴として認知されている日本軍「慰安婦」問題も、日本国内ではそれを否定する策動や発言が相次いでいます。
 特に私たちの住む大阪では、橋下市長が5月に、「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、『慰安婦』制度は必要なのは誰だってわかる」「日本は国をあげて強制的に『慰安婦』を拉致し、職業に就かせたと世界は非難している。だが、2007年の(第1次安倍内閣の)閣議決定では、そういう証拠がないとなっている」と、過去の記憶に苦しむ被害者たちに塩を塗り込むような発言を行いました。そして「『慰安婦』制度じゃなくても風俗業は必要」「沖縄の普天間に行ったときに、司令官に『もっと風俗業を活用してほしい』と言った」と沖縄の人たちの心を踏みにじる発言をも行いました。これらの発言はその後、紆余曲折するも撤回されることはなく、ましてや謝罪することもなく、現在でも「内務省が進駐軍への対応のための『特殊慰安施設協会』(RAA)を沖縄に置いた」「沖縄の女性が女性や子どもを守るため防波堤のような形で食い止めてくれた」などと、ありもしない歴史をひけらかして、「慰安婦」被害者を、沖縄を、女性を、差別し傷つけ続けています。
 2013年8月14日、このような大阪の地での、最初の日本軍「慰安婦」メモリアル・デーは、フィリピンのリラ・ピリピーナから日本軍「慰安婦」被害者のエステリータ・ディさんとコーディネーターのレチェルダ・エクストレマドゥーラさん、そして沖縄から高里鈴代さんをお招きしての集会となりました。会場は満員の330人の参加者を得て、みんながフィリピンと沖縄からの訴えに、しっかりと耳を傾けました。


ロラ・エステリータ、涙ながらに被害体験を語る

 ロラ・エステリータの証言は、とても重たいものでした。証言の細部がとてもリアルで、情景が瞼の裏にくっきりと浮かび、聴いていてとても苦しいものでした。
 ロラ・エステリータはフィリピンのネグロス島出身で、市場で店を開いているときにトラックの荷台に捕まえた大勢のゲリラを乗せた日本軍がやってきて、市場で見せしめにゲリラを銃剣や日本刀で殺し始め、ロラはそこから逃げだそうとするときに逃げ切れず、日本軍の駐屯地に拉致され、3週間もの間監禁されて、性暴力被害にあったのです。ロラが連行され被害にあった時を証言するとき、涙を流しながら、声を絞り出すように語っていました。
 証言によると、日本兵は占領当初はそれほど残虐ではなかったとのことでした。ロラ・エステリータが田舎に疎開し、鶏や牛を飼っていたとき、日本兵は卵やニワトリと交換に砂糖や塩、醤油を置いていったといいます。米軍が近づいてきて、フィリピン人のゲリラ活動で苦しめられるようになってから、残虐さを増したといいます。
 米軍の手によって解放された後、ロラは故郷のネグロス島にはおれず、マニラに出稼ぎに行くことに決めました。「この町に残っていると、私の身に起こったことが常に思い出されて、忘れることができないからです。私の被害を忘れるために、マニラに行くことにしたのです。」――多くの「慰安婦」被害者と同じように、ロラ・エステリータも故郷を失い、その後の人生まで大きく変えられたのです。その償いは決して言葉や金銭で変えられるものではないのですが、日本政府はロラたちに対して正式な謝罪も補償もしていません。

《ロラ・エステリータの証言》
 みなさん、こんにちは。この会場に来ていただいたみなさまに感謝申し上げます。
 私はフィリピンの日本軍「慰安婦」を支援するリラ・ピリピーナからまいりましたエステリータ・ディと申します。

 私は1930年4月28日生まれです。私たち家族は、当時、西ネグロス州のタリサイ町というところにありました、リサレス農園というサトウキビ農園で働いていました。父親は農園で働いており、母親は家を改造した雑貨店を経営していました。私は5人兄弟の5番目として生まれ育ちました。
 1942年になったときでした。当時私は12歳だったんですけれども、私たちの西ネグロス州タリサイという町に日本軍がやってきました。そしてちょうどその頃、無血開城されたマニラに日本軍が進駐したというニュースも聞こえてきました。それで私たち家族は、農園から更に森に囲まれた地方に疎開することにしました。そこには家で飼っていた牛や馬なども一緒に連れて行きました。私たちが疎開していたとき、一緒に連れて行ったニワトリがたくさんいまして、そのうち7匹がメンドリだったのでたくさん卵を産んでくれました。日本兵が時々パトロールで近くを通りかかったときには、私たちの卵やニワトリを見て「ぜひ自分たちの物資と交換して欲しい」と言い、代償に砂糖や塩、醤油をわけてくれました。
 1943年から44年にかけて、私たちは再び農園の方に帰っていきましたが、農園から私と母親は、日本軍が当時使っていた飛行場を整備する仕事に就くことになりました。農園からトラックで日本軍によって運ばれて、私たちは飛行場について、そこで地面をならす作業などをしました。この仕事をすると、日本軍は私たちに一人当たり2ガンダ(約500グラム)のお米を配ってくれました。しかし1944年のある日、飛行場で働いていると、上空に米軍機が空を飛んできて、空から紙切れのようなものをパラパラ撒いていきました。翌日にも米軍機がやってきて「飛行場で働くのはやめなさい」というメッセージを書いた紙切れを落としていきました。その警告を見て、私と母親は飛行場で働くのをやめました。
 アメリカ軍がいよいよ近づいてきたというニュースが入ってきました。そうすると日本兵はとても残酷になっていきました。日本軍はよくゲリラの待ち伏せ攻撃も受けるようになってきて、待ち伏せ攻撃の被害を受けると、近くにいたフィリピン兵を見つけ次第、捉まえたり殺したりするようになりました。

 1944年の10月から11月にかけて、私はタリサイ町の中心にある市場で、鶏肉や卵、野菜などを売りに行くようになりました。ある日、市場で店番をしていますと、日本軍の部隊がトラックで乗り付けてきました。彼らはゲリラの容疑者とみなしたフィリピン人の男たちを連れていました。そして広場の井戸のあった辺りで、ゲリラ容疑者たちを次々と殺し始めました。銃剣で刺したり、日本刀で首を跳ねたりして、殺していきました。そしてその様子を見ていた市場の人々は、一斉に逃げ出しました。私も逃げようとしましたが、途中で転んでしまいました。そうすると一人の日本兵がやってきて、私の髪の毛を掴むと、ムリヤリ私の身体を引き上げ、手を十時に組んで、トラックの方に連行していったのでした。トラックに乗せられると、他にも女性がいて、日本兵は銃剣を持って私たちを見張っていました。そのため私たちは叫び声を上げることもできませんでした。非常に怖かったからです。そのまま私たちは、トラックで近くにある日本軍の駐屯地に連れて行かれました。
 駐屯地の建物の中に連れて行かれ、ある部屋の中にムリヤリ押し込まれました。そして一人の日本兵が来て、その場で私をレイプしたのでした。その後、二人の日本兵が部屋にやってきて、私を更にレイプしました。また日本兵が入ってきたので、私が抵抗すると、その日本兵は私の髪の毛を掴み、部屋の中にあった机に思いっきり私の頭をぶつけたのでした。私は意識を失ってしまいました。意識を取り戻したとき、日本兵の姿はなかったけれども、リンダという一人のフィリピン人女性がいて、彼女が私に近づいてきて、「抵抗してはダメよ。抵抗しても痛めつけられるだけなので、日本兵の好きにさせなさい」を忠告していきました。
 次の日、4人の日本兵が部屋にやってきました。そして私をレイプしようとしたのですが、このリンダという女性がまた現れて、「この子はまだ傷ついているから、レイプはしないで、彼女を休ませてあげて」と言いました。それを聞いて、日本兵は帰っていきました。
 しかしそれから3日後、3人の日本兵が部屋にやってきました。その3人の日本兵にレイプされた後、またさらに2人の日本兵にレイプされました。こうして連日、たくさんの日本兵によるレイプ被害を私は受けたのでした。私は心身共に傷つきました。このような生活が3週間続きました。

 ある日、米軍がやって来るという警告が入ってきました。日本兵たちは慌てて駐屯地にあったものを、数夜にわたって山の方へ持ち運びだしました。ある日の未明、近くの路上で騒ぎ声が聞こえてきました。ひどく混乱しているようで、人々は口々に「ビクトリー・ジョー!」と米兵を迎え入れる声が聞こえてきました。米軍は日本軍の駐屯地にもやってきて、私も含め、捉まえられていたフィリピン人を次々に解放していったのでした。
 私はその足で駐屯地を出て、農園にあった自宅に帰りました。両親は私の姿を見て、非常にびっくりしていました。「まだ生きていたのか?!」と。すでに日本兵に殺されていると思っていたのです。

 戦後、再び小学校で勉強を始めることにしました。戦争中は学校が閉鎖されていて、勉強できなかったからです。小学校3年生からやり直し始めて、6年生で卒業しました。
 しかし1949年に、私はマニラに出稼ぎに行くことに決めました。この町に残っていると、私の身に起こったことが常に思い出されて、忘れることができないからです。私の被害を忘れるために、マニラに行くことにしたのです。
 私はマニラで働き始めました。ある一人の男性から求愛され、その男性と同棲を始めました。二人の間には6人の子どもが生まれました。その男性とは1996年になって結婚しました。
 私がある日、洗濯の仕事を終えて、家で休んでいるときでした。日本軍「慰安婦」にされフィリピンで最初に名乗り出た被害者が、ラジオで、同じ被害を受けた女性たちに名乗り出るよう訴える放送を聴きました。1992年のことです。放送を聴いた当時、とても名乗り出る気にはなれませんでした。非常に恥ずかしく思っていましたし、他の人には被害のことを話していませんでしたので、「今更名乗り出て恥をかくのではないか」と、非常に恐れたからです。
 しかしよくよく考えてみると、自分が戦争中日本軍に奪われた正義を回復するために、私は名乗りでなければならないのではないかと、思うようになりました。
 それで翌年、1993年になってから、私はリラ・ピリピーナの前身となる、タスクフォースと呼ばれていた、フィリピン人元従軍慰安婦問題対策協議会の事務所を訪ねました。そこで自らの被害を話した後、心の傷と向き合うカウンセリングを受けるようになり、子どもたちにも話をできるようになっていきました。

 最後に私は日本の皆さまに対して、ぜひ今後も私たちの正義を求める闘いを支援くださるよう、お願いいたします。フィリピン国内で私たちがいくらがんばっても、なかなか正義は回復されません。やはり日本の皆さまが私たちと連帯していただいて、日本の中でも運動していただいて日本政府に訴えていかないと、なかなかこの問題は解決しません。ぜひ皆さまの支援を、非常に重要な支援ですので、今後ともよろしくお願いいたします。
 ありがとうございました。


レチェルダさんのフィリピンの運動からの訴え
「日本市民の取り組みこそ重要」

 リラ・ピリピーナのコーディネーターであるレチェルダ・エクストレマドゥーラさんの発言は、日本軍「慰安婦」問題の解決の困難さを実感せざるを得ない、しかしそれだけに私たちの責任を自覚させられるものでした。
 フィリピンはルソン島、ビサヤ諸島、ミンダナオ島の3つの地域に分けられる大小7107の島々からなる国ですが、そのあらゆるところに被害者がいるそうです。それはあらゆる島々に日本軍が進駐し、そのすべてで日常的に残虐行為を行った結果です。リラ・ピリピーナのロラは174人いましたが、そのうち73人が亡くなり、生存されている多くの方も痴呆症などの病気で苦しみ、活動できるロラは6〜10人になってしまったそうです。フィリピンの被害者は貧困にあえぎ、必要な医療さえ受けられない状況にあります。今回来日される予定だったピラール・フリアスさんも、体調不良でこられませんでしたが、ロラ・ピラールもお金がなくてなかなか医者にかかれないそうです。
 日本政府が日本軍「慰安婦」問題に誠意ある対応をしないのと同様、フィリピン政府も動かないという現実を、レチェルダさんは嘆いておられました。韓国や台湾と違い国会決議があげられていないばかりか、フィリピン外務省は「請求権問題は解決済み」「アジア女性基金を通じて一定補償し、謝罪の手紙も配っている」と、日本政府と全く同じ主張をしているそうです。フィリピン大統領は、「過去の政権が対策を行うのを怠ってきた」と行政不作為を認め、日本政府に働きかけることを約束したそうですが、今に至るまでそれは実現していません。
 レチェルダさんは自国政府を批判した上で、安倍首相を批判し、橋下市長を批判します。
 「橋下市長は被害者の感情を配慮せず、さらなる苦しみを与えている。軍には女性を利用することが必要だと、侵略戦争を行うためには女性を利用するのもやむを得ないと。ロラたちの証言は、日本軍に強制的に連行され、強制的にレイプされた、まさに生きた証人だ。ここには明らかな強制性がある。これはフィリピンのロラたちだけでなく、台湾のアマや、韓国のハルモニたちも同じこと。安倍首相は今こそ、過去に向き合って、過去を変えるのではなく、過去に向き合って責任を果たすべき。加害責任があるという認知をし、戦争責任を果たすことが、今の安倍政権に求められていることだ。」
 安倍首相や橋下市長は河野談話を否定しようと策動していますが、レチェルダさんは河野談話についても「私たちは、公的な謝罪と補償、歴史教科書への記載を求めている。河野談話はリップサービスにすぎない。要求が実現されなければ、納得できない」と、明快に批判しました。
 8月14日をメモリアル・デーとして記念する取り組みを進めることで、国際社会からも責任を問われるだろうが、日本政府は国際社会の声に耳を貸そうとしない、やはり日本の市民のみなさんの取り組みこそが重要だと、発言を締めくくりました。このレチェルダさんの訴えを、私たちはとても重く受け取りました。日本の政治状況は、安倍政権が誕生した今、とても厳しいと言わざるを得ないのが現実です。しかし私たちは加害国に住む市民の責任として、どれほど政治状況が厳しかろうと日本政府を動かし、日本軍「慰安婦」問題を解決しなければなりません。ロラ・エステルータとレチェルダさんのお姿を前にして、再び決意しました。


高里鈴代さんの沖縄からのメッセージ
日本軍「慰安婦」問題と米兵による性暴力問題とは同じ

 沖縄から、基地・軍隊を許さない行動する女たちの会共同代表で、強姦救援センター・沖縄(REICO)代表の高里鈴代さんから、現在の沖縄での米軍による性暴力の問題と日本軍「慰安婦」問題が全く同じ問題であり、オスプレイ反対闘争・反基地闘争と軍隊による性暴力の問題が共に闘われている現状について、報告がありました。
 沖縄戦に向けて多くの日本軍が中国大陸から沖縄に移ってきて、それにあわせて多くの朝鮮人・台湾人が連れてこられたこと、部隊の数に見合う「慰安婦」が徴用できないとなると副司令官らが辻遊郭に赴き、刀を抜いて演説し女性たちを「慰安婦」にしたこと。住宅を強制的に接収して慰安所を設置したこと。3ヶ月の凄惨な地上戦の中で、糸数壕の中でも「慰安婦」として、病院の分院壕の中では看護婦として働かされ、砲弾の降りしきる中で置き去りにされた朝鮮人女性が多数目撃されたこと。そして特に忘れられないペ・ポンギさんのこと。そんな日本軍支配下での多くの被害女性のことを語っていただきました。
 そして一日もあけることなく、日本軍による支配から米軍による支配が始まり、米軍上陸直後から米兵によるレイプ事件が多発していた歴史を語っていただきました。兵士たちが徒党を組んで女性たちを襲い、自分たちが輪かんした後、他のグループに引き渡す事例。収容所の中でも女性が連れ去られる事件が多発し、娘が戻ってきても家族はそこにいられないので、姿を消すしかなかった。収容所から人々が村に戻っても状況は変わらず、村に警鐘を設置し米兵が現れると当番の少年は鐘を鳴らし、女性たちは身を隠した。――そのような米兵の行動は、日本軍が中国大陸やフィリピンなどで起こした行動と何ら変わりません。
 特に高里さんの語るベトナム帰還兵の暴力には驚かされました。 強かんされて首を絞められた女性、また強かんでなくとも一緒に寝ていて首を絞められ、殺されたり殺されかけた女性が本当に多かったそうです。それはベトナムの戦地の非人間性、兵士たちのPTSDのあらわれでもあるのでしょうが、それはより被害にあった女性たちの過酷さでもあります。ベトナムの戦地から解放された兵士たちは、祖国にまっすぐ帰るのではなく、沖縄にやってきたのです。大きな、大きなフラストレーションを抱えて。そのような兵士たちによる性暴力の被害者は、今も大きな傷を抱え、恐怖で夜も眠れない日々が続いているそうです。
 米兵による犯罪のうち凶悪犯は1割、そして強かんはその凶悪犯罪の中の1割にすぎないそうです。しかし被害者がすべて声を上げているわけではないと、高里さんは指摘します。まさに氷山の一角、認知されている被害は圧倒的に少ないのです。
 1991年の8月14日、日本軍によって性暴力の被害者とされた金学順さんが名乗り出られて23年、この日を日本軍「慰安婦」メモリアル・デーと定め、今年がその最初のメモリアル・デーです。高里さんは「被害にあっているものが声を上げ、歴史を変えた、画期な日である」と、「慰安婦」問題だけではなくすべての性暴力被害を根絶するためにも画期的であると指摘し、この日が沖縄にとっても重要な日であると感じさせてくれました。


 集会の最後に、集会参加者から集めたカンパをフィリピンと沖縄に手渡し、宣言文を採択して集会を終わりました。
 ロラ・エステリータのように、日本に来られるだけの元気な被害者は、フィリピンでも台湾でも韓国でも、もう数えるほどしかいません。被害者たちの元気なうちに、日本政府の公的な謝罪と補償、そして被害者の声を後世に語り伝える社会を実現するよう、がんばりましょう!