追悼 東日本大震災
震災と日本軍「慰安婦」被害者たち

 東日本大震災により被災された皆さまに心よりお見舞いを申し上げ、亡くなられた方々に深い追悼を捧げます。

 3月11日に起こった地震は、震災被害に遭わなかった人の心も大きく揺さぶりました。とりわけ日本軍「慰安婦」問題に関わる私たちにとっては、宮城県在住の宋神道さんの安否が何よりも大きくのしかかり、まんじりともしない夜を幾つも過ごしました。テレビでは津波被害によって壊滅した街を映し、原子力発電所の危機的状況を映し、多くの被災された方々の声を伝えていました。しかし私たちにとってなにもりもかけがえのない宋神道さんの安否は報道されることはありません。それは当たり前のことなのかもしれません。しかし被災した親しい人が心配でたまらないのと同じように、在日朝鮮人であり、身よりもなく宮城県に独り住む88歳のハルモニの安否が、私たちにとってはなによりも重要だったのです。
 宋神道さんは日本軍「慰安婦」として中国に連れて行かれ、日本兵の引き上げと一緒に日本に渡ってきました。戦前は自分自身が語れない、記憶さえ喪うほどの辛い体験をし、戦後は言葉も容易に通じない差別的な日本社会の中で生きてきたのです。宋神道さんは10年間にわたり裁判を闘われましたが、最高裁まで全て敗訴、しかし「裁判では負けてもオレの心は負けていない」と言い放った宋神道さん……私たちは彼女のもっとも必要とするもの――国家としての謝罪と補償――をいまだ届けられずにいます。
 地震から9日目、彼女の無事を伝える情報がメーリングリストを駆け巡りました。東京と宮城の彼女の支援者達が懸命の努力を続け、避難所にいる宋さんをついに見つけてくれたのです。

 多くの方がなくなられていることが気持ちに重くのしかかるなか、彼女が生きていてくれたことはやはり希望でした。

 そして地震が人々の心を揺さぶったのは日本の中だけではありませんでした。なによりも世界中の被害者が、自らの過去の苦しみを思いだし、気持ちを共にしています。自分たちの生活も決して楽ではないというのに、募金活動を行っています。テレビでは「がんばろう日本」「心をひとつに」という趣旨のCMや発言に満ちあふれています。しかしそれは「日本人だけがひとつに」という意味であってはならないはずです。多くの「慰安婦」被害者が被災者に心を寄せています。そして宋神道さんのように、日本人ではない、むしろこれまで日本社会に排除され続けてきた立場の被災者も数多くいます。
 宋神道さんは震災の深い苦しみからいまだ抜け出せずにいます。私たちは宋神道さんに「がんばろう」とも「心をひとつに」とも言えません。心に傷を抱える人と、それを支える人、その立場性・関連性を抜きに物事を語る恐ろしさを、私たちは知っています。
 だからこそ余計に、この震災に対する「慰安婦」被害者の行動に、心を打たれます。

 以下は「日本軍「慰安婦」問題解決全国行動2010」の号外より転載です。ぜひともお読みください。
 またあわせて下記もお読みください。
韓国挺対協ユン・ミヒャン共同代表のコラム
   「日本の地震被害、「ひと」を中心において考えてみよう」
第961回日本軍「慰安婦」問題解決のための定期水曜デモ声明書
   日本東北地方大地震の被害者を追悼し
 当HPでは「がんばろう日本」とも「心をひとつに」とも呼びかけません。
 がんばれる人が、がんばれるところから、がんばりましょう。震災被害者のために、そして日本軍「慰安婦」被害者のために。


【日本軍「慰安婦」問題解決全国行動2010 ニュース号外より転載】

宮城県在住の宋神道さん、9日ぶりに生存を確認
着の身着のままで7日間、避難所で過ごした宋神道さん。
愛犬・マリコも無事だった。(撮影:川田文子さん)
 宮城県に1人暮らしをしていた在日の「慰安婦」被害者、宋神道さん(88歳) の安否が気遣われていましたが、3月17日に避難者名簿で確認。地元の支援団体である「戦争への道を許さない女たちの仙台の会」と東京の「在日の慰安婦裁判を支える会」が連携して、3月20日には宋さんを東京まで無事お連れすることができました。
 病院で診察したところ、肋膜に炎症を起こしており、地震の恐怖とショックが大きい状態とのことでしたが、あたたかい支援を受けながら健康状態も日に日に回復し、東京での生活再建を目指して着実に歩み始めています。
 朝鮮半島から中国に連行され、7年にわたる「慰安婦」被害を受け、戦後も日本で厳しい生活を強いられた宋さん。この大震災で被災しても、生き抜いてくれたことに感謝します。

第961回目の水曜集会は、大震災の被害者を追悼するサイレント・デモ
ソウルの日本大使館前で、黙祷をささげる「慰安婦」被害者たち
(写真提供:韓国挺身隊問題対策協議会)
 3月16日正午、ソウルの日本大使館の前で、日本軍「慰安婦」制度の被害者と支援者は、3月11日に東日本を襲った大地震・津波の犠牲者を悼み、黙祷をささげました。
 日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモは1992年1月8日からスタートし、1995年の阪神・淡路大震災の直後の水曜日以外は、雨の日も雪の日も毎週開かれてきました。
 主催した韓国挺身隊問題対策協議会(以下、挺対協)は、3月11日の大震災直後の水曜日、中止するのではなく「追悼する気持ちを表すサイレント・デモ形態にする」と発表、日本軍により大きな傷を負った被害者も5人が参加しました。
 「慰安婦」被害者のひとり、李容洙(83)さんは、「日本の人々が、自分の力ではどうすることもできない被害を受けているのを見て70年前の苦痛がよみがえった。彼らの苦しみは私たちの苦しみと同じだろう」と語りました。また、李玉善(85)さんも「憎くはあるが気の毒だ。日本のみんな、泣くな、立ち上がろう、頑張れ」と励ましました。

「被災者を助けたい」――韓国・挺対協、募金活動をスタート
被災者を助けたいと「慰安婦」被害者たちが募金を実施
(写真提供:韓国挺身隊問題対策協議会)
 3月23日、第962回目の水曜集会では、「被災者を助けたい」という被害者たちの志を受けて、震災被害復旧のための募金活動がスタート。この募金は月末まで実施され、支援団体を通じて日本に届けられる予定です。
 挺対協の尹美香常任代表は、「一日でも早く震災という惨事から回復し、日本軍『慰安婦』被害者が見せた震災による犠牲者への広く大きな心を日本政府が少しでも見習い、過去の歴史の責務を早急に清算することを願う」と日本政府の行動を促しました。

フィリピンでは、大使館に書簡と花束を手渡す

 3月24日、フィリピン・マニラでも、東日本大震災の犠牲者を追悼してキャンドル行動を実施、日本を励ます書簡と花束がマニラ大使館の職員に渡されました。参加した団体の1つは、マパニケ村で起きた日本軍による集団強かんの被害者を支えている団体KAISAKA。日本の再建を祈るとともに原子力発電反対のメッセージも添えられています。