日本軍「慰安婦」被害者 宋神道さんを迎えて
今の宋神道さんに、
本当に日本政府の謝罪の言葉を届けたい

証言してくださった宋神道さんと、川田文子さん

  2011年11月26日、福島区民センターにて、日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワークとアムネスティ・インターナショナル日本「慰安婦」問題チームの共催で、宋神道さんをお迎えして映画とお話の集いを開催しました。
 参加者180人が、映画「オレの心は負けてない」を観て、宋神道さんの10年に及ぶ裁判闘争、そして宋さん自身の尊厳を回復する姿を学び、気持ちを万全にして宋さんのお話をうかがいました。
 またこの日の午前、やはり関西ネットの企画で大阪・十三の第七藝術劇場にて「オレの心は負けてない」上映会を開催し、満員の第七藝術劇場で舞台挨拶を行いました。

 宋さんの10年に及ぶ裁判闘争を記録した映画「オレの心は負けてない」はこれまで関西圏で、市民の主催を中心に何十回も上映されています。なので宋さんをお迎えして証言集会を開くのは、ここ数年来の夢でもありました。しかし宋さんの年齢と、宮城にお住まいという距離の遠さを考えれば、なかなか実現できるはずがありません。
 そしてあの3月11日。震災で女川に住む宋さんの消息が不明となっていた数日間、遠くに住む私たちも毎晩遠い宮城の地を思い、日本軍「慰安婦」問題の解決を求める全国の仲間と同様、まんじりともしない日々を過ごしていました。
 あの震災の記憶がさめやらぬ今、機会があって宋神道さんをお迎えすることができて、本当に嬉しくてたまりません。そして今回が宋神道さんをお迎えして大阪で証言集会を開く最後になるだろうと思い、とても緊張して当日を迎えました。
 宋神道さんは御歳89。足腰をだいぶ悪くされており、移動がとても辛そうでした。また前日は緊張からほとんど何も食されず、眠ることもできなかったそうです。にもかかわらず、宋さんは私たちに、とても気持ちのこもった証言をしていただきました。
  また聞き手に、宋神道さんが名乗り出るキッカケになり、宋さんから大量の聴き取りを行って「皇軍慰安所の女たち」を出版している川田文子さんをお迎えしました。川田文子さんの話の引き出し方がとても上手く、短いけれども濃密で有意義な時間となりました。

 午前の舞台挨拶で、宋さんは主に「慰安所」生活のことを語られました。辛い体験を語ってもらうことそのものが、聞いていて辛かったです。映画等で既に知っていた内容であっても、目の前で本人が語るのは全く違う重みがありました。
 「オレが一番辛いのは、……(泣きそうな顔で)まさかあんなところに入って働くとは思いませんでした。殴られ殴られ、何にもしないのに悪いこともしないのに殴られ殴られ殴られてばっかりしていましたけども」
 「どうやって子ども産んだべなあ思ったけど、恥ずかしいべし……大変だったんです。死んだ子どもが突っ張って出てこないし、サックかけて、手ぇいれて、手で引っ張り出して。その死んだ子ども(慰安所の裏の)山さ行って埋めた。強かったんです、オレは、まだ若いときはね。次に(産んだのは)男の子なんだけど、生きてる子産んで……漢口へ行って、海軍の慰安所のとこで用事して、子ども産んで、おっぱいが腫れてねえ。脇は痛いし、おっぱいやらなきゃいけないしな。そうこうしているうちに女の人が来て、でオレの子どももらうからと。子どもが着るものないから自分の着物で子どもの着物を作り、それを子どもに着せてやるときに……泣きました(泣)」
 午後の集会では、女川での生活が多く語られました。映画では知ることのできないお話に、とても衝撃を受けました。戦後の約70年、「在日」として日本人社会の中で生き抜いてこられた意味を、深く考えさせられました。
川田  女川の人の悪口、私随分聞いたけれども(笑)、その人たちも家とかみんな失ってねえ。親切にしてくれた人も、おばさんに意地悪した人も、宋さんが「慰安婦」だったと分かって……。
 それは差別されました。アレは戦争の時、あっちで「慰安婦」に行ったとか、すぐそういう話が出る。隠そうと思っても隠しきれないんですよ。分かってるから。
川田  おばさん女川の人に言われた随分酷い言葉だなあと思ったのが、「オマエのべべはバケツみたいに大きいんだ」とか「オマエのべべはタコよってる」とか……。
宋   へへっ(笑)。
川田  みなさんお分かりになります?この意味。慰安所であまりにも多くの軍人たちに対する性的慰安をしたので性器にタコ……座りダコとかできますよねえ。そういうふうに性器が固くなってるとか、バケツのように大きくなってるって。そんな酷いことも地域の人たちに言われて。
 ここだけを抜き出すと差別ばかりされていたように取られてしまいかねませんが、話全体の中では、女川での人間関係のいい面も語られました。そういった面も含めて、全て津波に流されてしまったのです。
 「地震が起こって、夢みたいだな、もう。戦争の時よりもひどいなと思いました」
宋さんは脈絡なく、思い出したようにそう語られました。戦争の時よりもひどいという言葉をどう受け取っていいのか、私は未だによく分かりません。ただ夢のように思える出来事、人間関係も含めて全て奪っていった地震の持つ意味の大きさ、宋さんに与えたショックを知りました。

 20年宋さんと向き合ってきた川田さんが涙を流して訴えられたことに、改めて私たちはしなければならないことがあると、再確認しました。
 「そうやって周囲の人たちに支えられて暮らしてきたんですよね。そういうもの全て失って、東京に来て、支える会のみんなの熱い思いはあるけれども、しかし日常的な何気ない挨拶とかで支えられることって随分ありますよね。そういうこと全部失って、今東京で暮らしています。
 私は今の宋さんに、本当に日本政府の謝罪の言葉を届けたい(涙)……と、思います」
              
 政治情勢は今最悪ではありますが、政治情勢で被害者の思いが変わるということはありません。宋さんの思いを市民に広げ、日本政府の謝罪と補償を、宋さんに届けるよう、今年も一日一日を頑張りたいと思います。

 最後に、集会が終わってその場で宋さんを囲んで誕生日会を行いました。また前日にも箕面温泉の近くで食事会を開催しました。宋さんはたくさん歌を歌われ、「大阪はなにもいいとこ無いけど温泉だけはいい」と喜んでいただきました。辛い身体を押して来ていただいたにもかかわらず、このように喜んでいただいて、私たちは宋さんにとても感謝しています。
 宋さん、川田さん、本当にありがとうございました。 


集会が終わって、宋さんの89歳の誕生日をお祝いしました。